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万人に愛される曲「セレナータ」

2000年12月24日、20世紀最後のクリスマス・イブの晩、助川久美子は友人に誘われ、生まれて初めて教会のミサに出かけた。チャペルの中には、数え切れないほどのロウソクが灯り、聖歌隊が合唱する賛美歌が響きわたっていた。その歌声を全身で浴びているうち、涙がとめどなく流れ、鼻からは鼻水が流れた。彼女にとってそれは、20数年間にたまった心の垢をすっかり洗い流すような、一種のカタルシスの体験だった。

そうしてひとしきり泣いて、涙も枯れ果てた頃、カラッポになった彼女の頭に、あるメロディが聴こえてきた。それは、シンプルだが、透明で純度の高い響きを持っていた。

年が明けた2001年、21世紀最初の年、彼女がギターを爪弾きながら口ずさむそのメロディを初めて聴いたとき、私の目からも涙が溢れた。私の耳には、この世の生きとし生けるすべての命に捧げる讃歌のようにも響いた。次の瞬間、私の中から自然に言葉が湧き上がり、詞になった。

どんな人の人生にも、必ずクライマックスの瞬間が訪れる。その瞬間には、何も大袈裟なドラマは必要ない。大袈裟な会話も必要ない。人数も二人いれば充分だ。たった二人の人間が、ほんの一言二言、交わす言葉が宝石に変わる。
そんな思いが、詞になった。
このようにメロディと言葉が響き合った瞬間こそが、私にとってかけがえのない宝物になったのである。

この曲はもともとAメロだけの極めてシンプルなもので、それに5番までの歌詞をつけていた。その状態で、助川がライブで歌うと大変評判がよかったにもかかわらず、彼女はメロディがあまりにシンプルなのに一種のコンプレックスを抱いているように見受けられた。
ならば、と私はサビの部分の詞を書き、それに彼女がすぐにメロディをつけ、現在の状態になった。
そのサビメロの部分にこそ、助川久美子という作曲家が並みのメロディメーカーではない「企み」が隠されている。
そして同時に、このサビの歌詞に、私は作詞家としての一種の「謎かけ」を秘めた。そのタネ明かしは、ここでは控える。

「セレナータ(serenata)」(イタリア語で“小夜曲”の意)と名付けられたこの曲は、老若男女を問わず、あらゆるファンに愛されている。

ここにご紹介するのは、和製ヒッピーたちの聖地とも言える福島県川内村の「獏原人村」の祭りで行われた幻の深夜ライブから抜粋した映像である。
たまたまそこに居合わせた観客で、このライブに魅了され、いっぺんで助川のファンになってしまった人も少なくない。

「セレナータ」

もっと そばに おいでよ
話が あるから
遠い日の夢は お星様になる

そっと 瞳 閉じてよ
息が 聞こえるから
旅立つ人のことは 風の便りになる

ずっと 肩を 抱いてよ
温もり 感じるから
明日の約束は 山の小鳥が歌う

じっと 目を 見つめてよ
何も 言えないから
過ぎた日の悲しみは 雲の彼方に消える

ぎゅっと この手 握ってよ
幸せ 探すから
物語の最後には 小さな花が残る

ありがとう 忘れない
ありがとう 忘れない
君が この世に 生まれたこと
共に 歩んだ 道のり
そして 君が 僕を 選んだこと


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