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シリーズ「ヤル気を伸ばす」(その15):真の「解放」に向かうための4ステップ

■統制からの脱却方法

このシリーズその9において、不良グループのリーダー格の少年が、担任の先生の求めに応じ、子分を更生させようとしているうちに自分も更生してしまった、という例を引きました。この例を用いて、強い統制を受けたことに対する一種のアレルギー(拒否反応)として、反抗や非行に走った不良少年が、6段階のプロセスを経て立ち直る(自己を統合する)様子をシミュレーションしてみたわけです。
この例は、いわば統制に対して「革命家気質」を育ててしまった不良少年が、取り入れてしまったルールや規範を、知らず知らずのうちに統合していくプロセスだったと言えます。
また、前回のシリーズその14では、同じ6つのステップを、ペルソナに固着した状態からペルソナとシャドーを統合していくプロセスに当てはめてみたわけです。これも、意識せずに辿ることになるプロセスと言えます。

しかし、もしあなたが、受けてきた統制にすでに気づいていて、それによって自分が「取り入れ」を起こしていることにも気づいていて、そこから抜け出せずに苦しんでいるなら、もう少し意識的な取り組みが必要かもしれません。そこで今回は、もっと具体的で実践的な「統制からの脱却方法」をご紹介しようと思います。
これは、一種の心理的エクササイズだと思っていただければいいと思います。
シリーズその9でご紹介した不良少年の場合は、更生のプロセスに担任の先生が同伴してくれたのかもしれません。しかし、あなたにこうした同伴者がいないなら、自分で何とか統合への道を歩まなければならないでしょう。これはいわば、人から指導を受けるのではなく、自分の力でいかに成長の高層ビルの階を一段階上に上がるか、という問題でもあります。これは、それほど生易しい道ではありません。なぜなら、成長の高層ビルを一段階上がるとは、慣れ親しんだものをいったんすべて手放したうえで、自分にとって未知の領域へ踏み出すことだからです。

このシリーズその8において、人が一生の間に無理なく到達できる成長の高層ビルの階層は7段階から8段階だろう、というお話しをしました。その、どの段階からどの段階へ意識的に上がる際にも、次のような4つのステップが役立つことを、ケン・ウィルバーは「インテグラル理論を体感する」(コスモスライブラリー)の中で述べています。
1.Unearthing(掘り起こす、明るみに出す)
2.Noting(注意を向ける)
3.Videotaping(録画する)
4.Letting go(去るに任せる、手放す)
この4つのステップを、瞑想のような一種の変性意識状態の中で行うことをウィルバーは推奨しています。それは、日常的な雑念を排して、自分の純粋意識に集中する、という意味合いからでしょう。もう少し専門的に言うなら、グロス(粗大)な意識状態からサトル(微細)な意識状態への移行ということです。
ウィルバーは次のように述べています。

「瞑想の修行を始めて最初に気が付くのは、自分の心が、ということは自分の人生というものが、ほとんど無意識的なおしゃべりで占められているということである。」(「存在することのシンプルな感覚」より)

存在することのシンプルな感覚

もちろん瞑想には、この「ほとんど無意識的なおしゃべり」に気づかせ、それを黙らせる効果があるわけです。無意識的なおしゃべりが黙ることによって、より意識的な自己が目覚める(意識の領域が広がる)ということです。ついでながら、扱い方次第では、夢にもこれと同じ効果が期待できます。
それでは以下に、この4つのステップをひとつひとつ詳しくご紹介していきましょう。

■Unearthing(掘り起こす、明るみに出す)

1.Unearthing(掘り起こす、明るみに出す)
「Unearth」という動詞は、地下に埋もれているものを発掘する、といった意味です。つまりあなたの「無意識」の中に埋没している「隠れた地図」を掘り起こして、明るみに出す、ということです。
シリーズその8で、人間がどのような段階を踏んで成長・発達するのか、そのプロセスは人類共通の「隠れた地図」である、というお話しをしました。その「隠れた地図」を掘り起こして明るみに出す、という作業が最初のステップだというわけですが、この発掘作業はそれほど単純なものではありません。
これから徐々にその地図の全貌を明らかにしていくつもりですが、あなたがもしその全貌をいち早く知りたいなら、ケン・ウィルバーの「インテグラル心理学」(日本能率協会マネジメントセンター)を紐解かれることをお薦めします。大著なので読みこなすのは大変ですが、有り難いことにこの本の巻末には、主だった発達論モデルをトータルに比較した一覧表が示されています。それを眺めるだけでも勉強になります。埋もれた化石のひとつひとつを掘り起こす前に、遺跡全体の様子を概観しておこう、ということです。
ここでは、そうした発達論モデルのいちいちを検証する代わりに、外的な統制によって、軍人気質、革命家気質、山師気質、シンデレラ気質の4種類の「外発的自己」が育つ可能性があることに注目してみてください。こうした気質類型も、今まである意味、人間の発達における「隠れた地図」だったはずです。つまり、自分という遺跡に取り組むにあたり、とりあえずひとつの化石を掘り起こすことで、発掘作業に慣れておこう、ということです。ひとつのアンモナイトを掘り出して観察することで、遺跡全体の構造を見通してみよう、ということです。

■Noting(注意を向ける)

2.Noting(注意を向ける)
さて、現在のあなたの気質は、上記4つの外発的自己のうちのどれに該当するでしょう。あるいはあなたは、場面ごとに複数の気質が入れ替わるような態度をとっているかもしれません。
日常の生活、あるいは今までの人生の様々な場面において、自分がどのような態度に出る傾向にある(あった)かに注意を向けてみてください。
家庭ではどうですか? 学校や職場ではどうですか? 地域社会(ご近所付き合い)ではどうですか? あるいはあなたが特定の宗教団体に所属しているなら、そこでのあなたはどうですか?
あなたは、自分が所属するそうした集団に注意を向けたとき、それらの集団は、あなたにどんな感覚や感情を呼び起こすでしょう?
そこであなたは居心地がよく、楽しいでしょうか、それとも窮屈で不快でしょうか?
それが、外発的に押しつけられた集団と、自分で自発的に選んだ集団とで、何か感じ方の違いがあるでしょうか?
あなたがそうした集団の中での人間関係に示す特定のパターンはありますか? 対する相手によって態度が変わりますか? 様々な現実の出来事に対するあなたの反応の仕方はどうでしょう?
勉強や仕事に対して、あるいは趣味に関してはどうですか? 世界の様々な出来事に対するあなたの感じ方・反応の仕方は? 科学に対してはどうですか? 自分の心と体の健康状態に関しては? あるいはあなたにとって霊的な営みとは? あなたは、何が真実だと思い、何が道徳的だと思い、何を美しいと感じるでしょうか?
あなたは、自分が心ならずも育ててきてしまった気質に注意を向けたとき、何を感じるでしょう?
あなたは何を絶対視したりタブー視したりしているでしょう?
そうしたあなたの状況に影響を与えた出来事や人物とは?
もしかしたら、かつて親や兄弟や教師や友人から受けた扱いが、あなたのものの考え方や感じ方に「影」を落としているかもしれません。
それらのことに、ジャッジを下すのではなく、ただ注意を向けてみてください。

■Videotaping(録画する)

3.Videotaping(録画する)
自分の「外発的自己」がどのような状態にあるかを把握できたら、その状態を意識の中に保持する、という作業が次のステップになります。
このステップは、文字通り日常の自分のあり方を「ビデオカメラで録画する」という作業です。ここで重要なことは、あなた自身が完全に中立なビデオカメラになって、いかなる判断も加えず、すべての事柄をありのままに見詰め、記憶する、ということです。あなたはただ、起こっていることに気づいている、ということです。

なぜこのようなステップが必要なのか、ひとつ例を示しましょう。
心ならずも自分の子どもを虐待してしまう母親(父親でもいいのですが、ここでは母親にしておきます)がいます。そういう母親に「子どもに対するあなたの扱いは虐待にあたります」と伝えると、それを信じず、たいていの母親が「しつけだ」と言い訳します。
こういう母親の意識を変えるのに、ある療法が用いられることがあります。その母親が子どもに接する場面を実際にビデオに撮って本人に見せるのです。自分が実際に我が子に対して、どのような表情を見せているのか、どのような言葉をかけているのか、どのような動作を示しているのかを、本人にフィードバックするわけです。そうすると、たいていの母親が愕然とし、自分が心ならずも(無意識的に)そうした態度をとっていたことに気づく、というわけです。言い換えるなら、「外発的自己」とは、「心ならずも」の行動を促すものであるため、そのとき本人は、抵抗できない何かに突き動かされている、という状態なのです。そして、(本人が精神障害などの場合を除いて)気づいた瞬間から行動の修正が始まるわけです。気づかないうちは、何も変わらないのです。
これがもし、カウンセラーや何らかの指導者から、「あなたが子どもに対してやっていることは虐待です。あなたは直ちに態度を改めなければなりません。でないと、罪に問われることになります。場合によっては子どもと引き離されることもあり得ます。ついては、これからの行動指針として・・・・」といったやり方で対応されたらどうなるかを考えてみてください。

○たとえばあなたが「軍人気質」だとすると、何かにつけルールを守ることを人に強要し、守らないと相手に罰を与えるようなことをくり返しているかもしれません。そういう場面を具体的に記憶にとどめてください。
○たとえばあなたが「革命家気質」だとすると、社会的なルールや規範に対し、何かと反抗的な態度をとったり、ルールに対して従順な人に批判的(攻撃的)だったり、といったことをくり返しているかもしれません。そういう場面を具体的に記憶にとどめてください。
○たとえばあなたが「山師気質」だとすると、勝てないとわかっている勝負に手を出したり、その後の尻拭いを平気で人に押しつけたり、といったことをくり返しているかもしれません。そういう場面を具体的に記憶にとどめてください。
○たとえばあなたが「シンデレラ気質」だとすると、自分に何らかの負荷や責任を押しつけられそうになる状況に対して過敏に反応したり、人が自分を助けることは当然だとばかり、人に無理難題を押しつけたりすることをくり返しているかもしれません。そういう場面を具体的に記憶にとどめてください。
○あるいはあなたは、ある場面では「○○気質」を発揮し、また違う場面では「●●気質」を発揮するようなことをくり返しているかもしれません。そういう場面を具体的に記憶にとどめてください。

このステップで注意が必要なのは、自分がどんな変化を望んでいるのか、自分にはどんな変化が起こり得るのか、あるいは逆に自分に起こってほしくないこととは何か、といったことに注意を向けるのではない、ということです。
ここで何が必要かについて、ウィルバーはこう言っています。

「ただ、意識を向けるということそれ自体のために、意識を向けているのです」(「インテグラル理論を体感する」)

インテグラル理論を体感する

つまり、自分のありのままの現状を記憶にとどめる、ということです。それ以上でもそれ以下でもありません。
なぜこのような回りくどいステップが必要なのでしょう。自分の態度に問題があるなら、どこがどう問題なのかを突き止め、さっさと行動変容すればいいのでは、とあなたは思うかもしれません。
しかし、その方法では、自分で自分に「行動療法」を仕掛けることになってしまいます。つまり「隠れた地図」を発掘する前に、その地図から目を背けることになってしまいます。それでは、自然治癒能力を発揮する前に、自分で自分を統制することになります。人は治すのではなく治るのです。

もちろん、私たちは日常生活の一挙手一投足をビデオに録画して、それを見返すことなどできません。そこで、一般的には、このステップは瞑想の中で行うことをウィルバーは推奨しています。瞑想の中で、こうした自分の日常的な振る舞いについて「録画して保持する」ことは、自分自身を「客体」として眺めることであり、それこそが、現時点での「隠れた地図」に「固着」(あるいは同一化)している状態から、脱同一化へ向けての一歩を踏み出すことだ、というわけです。
「統制→取り入れ→外発的自己→随伴的(条件つきの)自尊感情」といった一連のプロセスの何がいちばんの問題かというと、誰もが本来的に持っている自分で自分を「客体」として眺める権限を、他人や外的環境に譲り渡してしまう、という悲劇です。
「隠れた地図」を意識する前のあなたは、いわば、その地図を「通して」のみ、この世界を見ていたわけです。その状態から、このステップによって、その地図そのものを見る対象にするわけです。変に歪んだり偏ったりして見えるメガネを外すために、そのメガネを「通して」世界を見るのでなく、メガネそのものを見る、ということです。「私=私がかけているメガネ」ではない、ということに気づく、という作業です。
この場合は、こういうシチュエーションではついついこういう態度に出てしまう「外発的自己」を、「内発的自己」がありのままに見る、ということです。
そこで、このステップであなたが示すべき態度はこうです。

「私は、自分が対外的に示している気質やパターンに意識を向け、自分が所属する集団に注意を向けます。そして、それがどんな感じのものかをありのままに保持し、それをあらゆる角度から見詰め、そういう自分に気づいています。それについて、批判したいとも、非難したいとも、同一化したいとも思いません」

■Letting go(去るに任せる、手放す)

4.Letting go(去るに任せる、手放す)
あなたは、外的な統制によってある特定の、あるいは複数の気質を育ててしまい、社会的なルールや規範に対し、服従したり反抗したりしているかもしれません。しかし、それらのことを、もはやあなたは正確に思い出し、それらを記憶し、それらを冷静に客観的に見詰めています。
そこで、このステップであなたが示すべき態度はこうです。

「私は、自分が何にこだわり、何に囚われ、何に振り回され、何に抵抗し、何に絡めとられて、どのような気質を育ててきたかを知っています。
しかし、「私=私が示す気質や傾向」ではありません。「私=私がかけているメガネ」ではありません。
私が価値を置くもの、強く求めるもの、私を奮い立たせるもの、あるいは私をげんなりさせるものはどれも、誰かのものではなく、私自身のものです。
私がそれを所有しているのであって、それが私を所有しているのではありません。
私はそれらの願望、価値観、対人関係、信念体系、美意識、倫理観、感情、霊的意識を通して世界を見ているのではなく、それらを見ています。
私はそれを抱きしめ、それに居場所を与え、それをありのままに見詰めます。
私の心は「鏡」です。私の心はすべてのものをありのままに映し出しますが、私はそれらのものではありません。」

こうした実践を通して、やがてあなたは「隠れた地図」との同一化を緩め、そこから脱同一化する準備を進めていきます。
ウィルバーはこう言っています。

「すると、意識の中に、隙間ないし空間が生まれて、そこに次の段階の自己、次の段階の地図が現れるようになります。
これは非常に大きな変化です。あなたのアイデンティティも、あなたが価値を置くものも、あなたが強く求めるものも、あなたの行動も、動機づけも、原動力も、全てが大きく変化するのです」(「インテグラル理論を体感する」)

インテグラル理論を体感する

やがてあなたは「広大な海のような自由と解放の感覚」を感じ始めるかもしれません。今までの段階を「含んで超える」が始まるのです。
あなたは、あたかも実際の眼で実際の景色を見るように、内的な眼で、それまでの自分、それまで自分が、それを「通して」世界を見ていた「隠れた地図」を見るでしょう。それは、脱皮して一回り大きくなったヘビが、自分の抜け殻を外側から眺めるようなものです。もちろんあなたは、その自分の抜け殻に再びもぐり込もうとは思わないはずです。なぜなら、あなたはそこ(窮屈さに気づかずに着ていた拘束衣)から脱した自由と解放を味わっているはずだからです。
別のたとえをするなら、自分の身体が一回り大きくなり、現在の「宿」が窮屈に感じられるようになったヤドカリが、現在の宿から身体を抜き、一回り大きい「宿」に引っ越そうとするようなものです。それは、今まで安住の場だと思っていた宿が担っていたすべての意味からの卒業でもあるのです。もちろん一回り大きな宿を見つけて、そこにもぐり込むまでは、不安がついて回るでしょう。しかしもはやあなたは、小さくなった旧い宿に再びもぐり込むことはできないのです。

■「ある」と認めて初めてそれを手放せる

ここで気をつけていただきたいのは、「外発的自己」から解放されるということと、そういう自分を手放す、ということの微妙な違いです。「解放される」と「手放す」はほとんど同義語のように感じるかもしれませんが、誤った使われ方をする場合があります。
あなたがもし、あなたを拘束している「外発的自己」をむやみに手放そうとすると、自己否定や自己批判の甘い罠に陥り、かえってそれに支配されてしまいます。例えばあなたが、癌の宣告を受けたとしましょう。自分の中に癌があることを手放そうとするなら、「ある」ものを「無い」としているわけです。あるのにもかかわらず無いように振る舞いたいと、無いことにしておこうとするわけです。これは、およそあり得ない錬金術になってしまいます。
逆に「ある」と認めた瞬間から、癌の治療が始まるのです。

本来「手放す」ということは、去っていくもの、なくなっていくもの、遠ざかっていくものに手を振って、自分はここに留まるということです。手を振ったものについて行ったのでは、手放したことにはなりません。それは執着になります。手を振ったあなたは、ここに留まっていなければなりません。「ここ」とは、「外発的自己」と共存している自分の居場所、自分の存在のあり方ということです。本来手放すべきもの、解放される必要のあるものとは、「外発的自己」に執着したり、それに支配されたりしている(していた)「自分」ということです。そういう自分に手を振って、ヘビの抜け殻のように、ヤドカリの小さくなった宿のように、遠景に遠ざかるのを見送る、ということです。
つまり、一種の同居人、居候として、「外発的自己」がいて、いることは認めていて、大して気にならない、邪魔なときには、きちんと言い聞かせて黙っておとなしくしていてもらう。つまり「オマエは確かに私の一部だが、私=オマエではない」という認識です。おそらくそれが人間としてのあるべき姿でしょう。言い換えるなら、あなたが外発的自己の奴隷になるのではなく主人になる、ということです。

あなたは、変に歪んで見えたり偏って見えたりするメガネをかけています。それを外して、より解放された自由な目で世界を見たいと思っています。そこで、そのメガネを外す前に、それに囚われている自分の方をさっさと手放そうとすると、それは一種の現実逃避となり、かえってそのメガネに執着してしまう、ということになりかねません。何かから解放されたければ、まずそれが「ある」と認めなければなりません。もし認めないまま手放そうとすると、メガネをかけているのにかけていないフリをする(そんなメガネなど存在しない)という態度になってしまう、というわけです。
そこで、メガネの存在を認め、そのメガネを記憶に保持するなら、やがて「かつてそのようなメガネを通して世界を見ていた自分」を外側から観察している自分を発見し、それによって、そのメガネが自分の遠景に遠ざかっていくのを見送ることができる、ということです。
ここで注意が必要なのは、真の「解放」とは、社会的な責任からの逃避を意味しない、ということです。むしろ社会的な責任を束縛と感じてしまう(つまり「外発的自己」に同一化している)自分から自由になることこそが、真の「解放」なのです。

「自分は歪んだメガネなどかけていない。自分には隠れた地図などない。そんなもの認めない」と思っているうちは、相変わらずそのメガネを、その隠れた地図を「通して」のみ、この世界を見ることになります。そうすると、わけもわからず自己否定したり自己批判したりすることになります。つまりその地図に支配されている状態です。「奴隷」とは、主人の目を通してしか世界を見ることができない存在ということです。だからこそ、まず「ある」ことを認める、ということです。それがあると認められるなら、次にそれに支配され、それに振り回されている自分も認められる、ということです。認められる、ということは、そういう自分を否定するのではなく、客観的な観察の対象(客体)にできる、ということです。つまり、自分の中から出て行って、自分から遠ざかるもの(自分を支配していた地図や、それに支配されていた自分)に手を振って、それらに手を振っている自分、それらに気づいている自分は、気づいているという地平に留まる、ということです。かつての自分の隠れた地図、かつての自分の抜け殻、かつての自分の窮屈な宿を、記憶に保持したまま、自分は一段階上の(一回り大きな)地平に留まる、ということです。ここまできて、初めて「去るに任せる、手放す」が可能になってくるわけです。これこそが真の「解放」です。
そういう意味で「手放す」とは、何かを「捨て去る」「処分する」ことではなく、それを保持したまま、それに執着している自分自身から卒業する、ということであり、卒業前の自分自身を「含んで超える」ということでしょう。学生生活からの卒業というのは、学生時代をすっかり捨て去るということではありません。学生生活を自分の一部として、それを含んで超えていく、ということのはずです。そのようにして初めて、新しい、一回り大きな地図を手に入れることができる、ということです。

さて、ここまで読んだあなたはもうお気づきかもしれませんが、極端な「ポジティブ・シンキング」を強要して、ネガティブなものをとにかくいっさい排除しようとする自己啓発思想などが、いかに危険なものか、ということです。この極端な「手放し」癖を要求してくる考えは、逆に手放そうとするものへの激しい執着を誘発しかねません。これも「含んで超える」ことに失敗した例です。このような考えを押しつけてくる人間は、「隠れた地図」の構造についてまったく知らないか、あるいは知っていて逆に悪用しようとしているかのどちらかでしょう。
誰かが何かに激しく執着することで、誰がどんな理由で得をするのか考えてみてください。そこには明らかに、人をマインドコントロールして利益を得ようとする「隠れた意図」が潜んでいます。こういう手口に引っ掛かった人は、その「隠れた意図」への依存を引き起こし、下手をすると無力感にさいなまれ、鬱になったりパニック障害を誘発したりしかねないのです。
はっきり言っておきましょう。人が成長するとは、イヤな自分、嫌いな自分、何かに囚われている自分をむやみに「手放す」ことではなく、そういう自分を否定せずに、あるいは目を背けずに見詰め、そういう自分を「含んで超える」ということです。なぜなら「外発的自己」も自己の重要な構成要素だからです。あなたは自分という遺跡の発掘者であって、堆積している化石そのものではありません。それらを構成要素とする「土台」の上に安定して立っている存在なのです。

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