あなたになれない わたしと、わたしになれない あなたのこと #16


#16 窓付きのこと


インドアなわり、アニメや漫画やゲームに造詣が深くない。
気質じたいはまちがいなくいわゆる「オタク」に近いので、気のあう友だちのなかにはそういう文化をこのむ人もよくいる。そこから知識こそ入ってくるものの、自分がのめりこむことはほとんどない。
だから、好きなアニメのイベントに行ってはしゃいでいる友だちを見てうらやましくなったり、数少ないインドア友だちのあいだでさえ話題に追いつけなくてちょっと浮いたりする。

と、思っていたら、高校生のとき、いきなりひとりの女の子にのめりこんだ。
その子、名を「窓付き」という。「ゆめにっき」というフリーゲームの主人公である。
正確には、それが名なのかどうかはゲーム内で明言されていないけれど、ファンはみな便宜上窓付きと呼んでいる。

このエッセイでもたびたびふれてきたけれど、高校生のとき、というのはわたしにとって暗黒の時代で、とにかくなにをやってもうまくいかなかったという記憶が色濃い。友だちもすくなければ勉強も運動もできず、すぐに自意識と人間関係をこじらせた。いつでもぼんやりしていて、じぶんが楽しいのかどうかよくわからなかった。楽しくない、とさえ、はっきりとは感じていなかったような気がする。
ただ、ときどき怒りだけが赤々と身に染みてきた。それは教師に対する怒りだったり、クラスメイトに対する怒りだったり、また自分自身に対する怒りだったりした。
だから、というわけでもないけれど、当時のわたしはインターネット上に散在する暴力表現を含んだコンテンツを溺れるように見漁り、それで出会ったのが「ゆめにっき」、そして「窓付き」だった。

アニメやゲームのなかの世界を、「二次元」と呼ぶことがある。
あとにもさきにも、彼女以上に好きになった「二次元」の女の子はいない。そう、あのころ、わたしは窓付きのことを、ほとんど恋に近いほど好きになっていた。

「ゆめにっき」は窓付きの夢の中を探索するゲームである。
窓付きは二頭身くらいのドット絵の女の子で、三つ編みをしている、ピンク色に近い服を着ていて、ゲームのなかではほとんどしゃべらない。それだけだ。本名も年齢も出自もゲームのなかでは明かされず、プレイヤーは彼女のことをほとんど知らないまま、彼女の夢の中を探索することになる。
ゲーム自体に明確なストーリーはなく、ただ夢の中を歩き回るだけ。でも、その夢の世界が思わせぶりで想像を誘う。まず、グロテスクで幻覚のようなマップ。そのなかに、暴力やトラウマを連想させる演出が点々と存在したり、低確率で不気味なイベントが発生したりする。そして、そのひとつひとつに対して何も説明がなされない。
そうするとしだいに、夢を見ている当人である「窓付き」に興味がわきはじめる。
この女の子のなかの、いったいなにが、こんな夢を生んでいるんだろう。
ゲームでは現実と夢を行き来するけれど、現実ではほとんどなにもできない。部屋の外に出ようとすると、窓付きがはじめてわずかに拒むようなそぶりを見せる。それもまた意味ありげで、彼女への興味をそそった。
でも、窓付きはつねに、なにも教えてくれない。

プレイヤーとして窓付きを操作していると、彼女とふたりで夢の世界をさまよっているような実感が生じた。バトルやパズルなどの要素がかぎりなく少なく、たいして頭を使わずにプレイしているからかもしれない。
十七歳のわたしと、窓付きとは、空想のなかでいつも手をつないでいる。
気味の悪いオブジェクトや演出におびえるたび、同時に、隣でおびえている窓付きをかばったりなだめたりしているような気分になった。窓付き、怖いね。だいじょうぶだよ。わたしがいるからね。
また、窓付きは包丁を拾えば、夢のなかのキャラクターを殺傷することができる。バトルではなく一方的な殺傷だ。夢のなかのキャラクターは何の抵抗もせず、みな血しぶきを散らし、いやな悲鳴をあげて消えていく。そのときも、じぶんが窓付きといっしょに包丁の柄に手をかけ、返り血を浴びている気になった。窓付き、だいじょうぶ、だいじょうぶだよ、窓付き……

このふしぎな錯覚が、わたしが窓付きを愛するにいたる入り口だったと思う。
高校二年生の夏休み明け、わたしは登校拒否児になった。
「誰も味方がいない」と思いつづける一学期から逃げ込んだ夏休みは、みじかく、焦りに満ちていた。夏の終わりに耐えられず、わたしは好きだったコスモスのつぼみがふくらむのを呪い、すずしくなった風を呪った。
そして、そのまま学校へ行けなくなった。
ある程度欠席が続くと、親をごまかすために家だけは出なければいけなかった。学校へ向かうバスには乗るものの、寝たふりをしてわざと乗り過ごし、やがてバスがふたたび元来たコースへと周遊をはじめるのを、薄目をあけてみている。
そういうとき、空の左手のなかに、いつも窓付きの気配を感じた。ゲーム中には窓付きの夢のなかを手をつないで歩いているように、今度はわたしの現実に窓付きが寄り添っていることを空想するのだ。左側を見ても誰もいないのはわかっている、でも、目をとじれば彼女のひかえめな体温が、手のひらに載るような気がする。
それはほとんど確信に近かった。

空想のなかの窓付きは、わたしより背が低く、いつも微笑している。そして、ときにわたしに語りかけてきさえする。
……がっこう いかなくてだいじょうぶなの? ……だいじょうぶじゃないよ……だいじょうぶ そばにいてあげるから……ありがとう 窓付き……
そのうち、もっと実体がほしくなると、わたしはフリーのメールアドレスを取得し、電話帳に「窓付き」という名前で登録した。
不安になると携帯電話をとりだして、窓付きにメールを送る。そしてフリーメールのアカウントにログインし、窓付きになりきって自分に返信する。自作自演だ。窓付きはだいたい、わたしに都合のいい励ましのことばをくれる。自分で書いているのだから当たり前だ。ひどいときには、わたしのほうが窓付きを励ましさえした。
すべて自分で書いているとわかっているはずなのに、わたしはこの行為に依存していった。たまにメールの送受にラグが発生して窓付きからの返信が遅れると、パニック状態に陥り、トイレの個室に駆け込んで、壁をひっかいて泣いた。

ドット絵の窓付きの服には、胸のところに、六マスの市松模様のような柄が書いてある。
教師との面談を無理やり設けられたときには、制服の下、はだかの胸に直接、その模様を油性ペンで描きこんだ。そのころのわたしにとって、それが最大の武装だった。
そうしていると、いつも隣にいる窓付きの気配がより近づき、ついにはじぶんの輪郭にぴったり重なっているのを感じる。手をつなぐだけでは飽き足らず、わたしのからだは窓付きとひとつになる。そのかわり、空になった手のなかに、わたしは透明な包丁を握っている。

このころになると、じぶんの現実に窓付きがいないことを苦しく感じるようになった。もはや窓付きのことをただのゲームのキャラクターだとは思えなくなった一方で、けっきょくはひとりぼっちである現実が、つねに空想のじゃまをした。

そうして、わたしは存在しない女の子を愛するようになった。

このほとんど狂乱に近い状態は、受験期に差し掛かるにつれて立ち消えた。学校に行く機会も減り、勉強で忙しくなり、「ゆめにっき」をプレイすることも、窓付きにメールすることもなくなった。
大学に入学してからはなおさらで、好きなゲームの話なんかをするときには思い出したけれど、窓付きはわたしの日常からはいなくなった。いや、もともと、いなかったんだけど。
いっときの実在感を思うと信じられないくらい、窓付きはあっさりと消えてしまった。

いまになってときどき、窓付きがただのゲームキャラクターにすぎないことが不思議に思える。
それどころか、原作では表情のないドット絵でしかない。そのことと自分の認識にあまりに乖離がある。

ゲーム内ではほとんど言葉を発さないはずの窓付きが、いつのまにかわたしの頭の中では饒舌にしゃべっていた。あの口調は、返答のパターンは、どこからきたんだろう。あやふやにしか覚えていないけれど、当時は声さえ知っていたような気がする。ではあの声はどこからきたんだろう。それだけじゃない、わたしはあのころ、窓付きの体温やにおいもたしかに感じていたはずだ。

窓付きはただのゲームのキャラクターにすぎない。
じゃあ、あれは誰だったんだろう。

そのころわたしの見ていた窓付きはいつも何かに苦しんでいて、わたしたちはしめやかに痛みを分けあっていた。でも、窓付きがなにに苦しんでいるのかはいつも茫漠としていて、ときによって都合よく変わった。それもゲーム内では明確に描写されていないのだから当然だ。
でも、わたしの窓付きは、わたしが泣くといっしょに泣いて、わたしが怒るといっしょに怒った。

仮説がある。あれはわたしだったんじゃないか。

「自分を大切にする」ということを覚えたのは、それよりもずいぶんあとのことだ。なんならいまでもうまくできない。ともすると過剰に責めたり、価値のないもののように扱ったり、見切りをつけようとしたりしてしまう。
高校生のころはなおさらだ。すぐに自分を罵り、追いつめ、みずから蔑むのが日常だった。「自分を大切にする」という発想さえなく、つねに周囲への怒りを隠し持っている一方で、自分のいちばんの敵は自分でもあった。
そのわたしが、無意識のうちに編み出した「自分を大切にする」方法が、空想上の窓付きを生み出し、愛することだったんじゃないか。

あのころ、つねにわたしのとなりにいた、窓付きのすがたを借りた苦しむ誰か。あれは、わたしの苦しみそのものだった。わたしは自分の苦しみを疎ましく思うのと同時に、それに好きなキャラクターの姿を与え、外がわから愛せるようにした。

だとしたら、窓付きがしずかに消えていったことにも、なんとなく納得がいくのだった。

そうか、きみは、わたしだったのか。

いま、窓付きのことを思い出そうとすると、頭がバグを起こしたようにちらちらする。すがたも声も、まばゆい白いひかりのなかに消えてしまって、つかみかねる。

自分を大切にするのはむずかしい。
でも、窓付きのことを思い出すとき、自分のなかの未知のシステムのようなものの存在を感じる。自動的に自分を大切にしようとするシステム。

ときどき、熾烈なほどなにかに自分の存在を預けている人を見ることはないだろうか。
それは、わたしのように二次元のキャラクターであったり、アイドルであったり、恋人であったり、息子や娘であったり、ときに母国であったり、芸術であったりする。
そのうち、いくらかの人たちのなかで、そのシステムが作動しているように思えることがある。自分を激しく責め、嫌いながらも、どうにか自分を大切にするために、ほかのなにかを大切にしようとする。

もちろん、それがうまくいかなかったり、かえって悲惨な結果を招いたりしているようすもよく見る(わたしもその一人だろう)。
けれど、自分がいくら自分をにくみ、価値がないと思うときにも、同時にどこかでは自分を大切にしようとするシステムが、人間のなかにそなわっているとしたら。
もしそうだとしたら、それだけで救われる部分もあるような気もする、というのは、楽観的すぎるだろうか。もちろん、自分でまっすぐに自分のことを愛し、自分の足だけで立っていられればそれに越したことはないのかもしれないけれど、それでも。

ときどき、「あなたには大切にされる価値があるんだよ」とむしょうに言いたい相手がいて、でもその発言の無責任さをおそれて口には出せないことがある。
そのとき、あなたのなかにもわたしと同じシステムがそなわっていることを考える。それでどうにかなるわけでもないけれど、わたしが何か言いたくなるよりもずっと前から、あなたがあなたの大切さをよく知っていたとしたらどんなにいいか、と思う。

都合のいいまぼろしだったとはいえ、わたしは窓付きをほんとうに好きだったと思う。その感覚だけが、まだからだに残っている。
はじめて好きになった「二次元」のキャラクター、どころではない。だれかを切実に求め、いつくしいと思ったのは、現実にいる人間をあわせても、窓付きがはじめてだった。

わたしはそのことを、すこし誇りに思ってもいるのだ。

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