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映画レビュー|「チョコレートドーナツ」|内発的な動機の強さと、それを阻む全体主義について

久しぶりに見たこの作品、相変わらずの完璧さだった。
たった98分の映像なのに、観る前と観た後では同じ自分ではいられない。
そういう体験がアートの醍醐味。


学校のお遊戯会で歌をうたうマルコ。
決してうまくは無いけれど、その姿を満面の笑みで見つめるルディ。
あのルディの表情を見る度になぜこんなに心を打たれるのだろう?

その理由は、ルディがマルコを愛する動機にあると思う。今作では意外にも、なぜルディがあんなにもマルコに執着するのか描かれていない。さも当たり前のようにルディはマルコの保護者の顔になっていく。

つまり大きな理由やきっかけなんてないんだと思う。
すべてがルディの「内発的な動機」故の行動であるということ。
それは構造的には「母親の愛情」をも超えてしまう可能性だってある。
なぜなら血の繋がりがある母親という存在は、それだけで社会通念として子供を愛する責任が生まれてしまうから。

ルディの場合、そのような事情が全くない。
全くそうする必要が無い人にも関わらず、マルコを愛するというこのシチュエーションに感動しているのだと思う。

一方で別のアプローチで愛を表現するのはルディのパートナーである弁護士のポール。

彼こそが素晴らしい。(僕は彼がイチオシ!)
彼が劇中で訴えるメッセージは終始一貫している。
それは「名もなき者に光を当てよ」ということだ。

障害者と一括りにされ、またはゲイやホモとレッテルだけ貼られ、社会の隙間に追いやられる人々にはもちろんそれぞれの名前があり、個別に向き合えば、例えばチョコートドーナツが大好きだったり、ハッピーエンドのお話が好きだったりすることが分かる。

そのような事実を伝えるとき、大きな「社会」に向き合ってしまってはいけないと感じる時がある。
社会を変えるにはイデオロギーだけでは解決しないのだ。
大通りをデモすることは否定しないが、その方法ではメッセージを向ける相手に名前は存在しない。

そのような方法ではなくポールは、判事に、法廷で戦った弁護士に、元同僚の検事に対して、名もなき人の顛末を手紙で伝える。
その手紙に、感情的な表現は見られない。

「あなた達が普段見ようとしない人々が、あなた達が行った選択によって、どのような顛末を迎えたのか」を淡々と伝える。

この映画は、ラスト10分で大きく物語の舵を切る。
多くの人にカヴァーされているボブ・ディランの「I shall be released」をルディが歌う。
その複雑な感情表現に圧倒される。
マルコを失った悲しみを胸に「自分たちは解放されるべきなんだ」と歌う。

僕はこの曲の「any day now」と繰り返す歌詞が頭から離れなくて、気に入ってしまい、自分のハンドルネームにも拝借している。

僕はこの「any day now」と言う一説に力強さやある種の希望を感じる。
「いつの日か」や「今すぐにでも」など解釈も色々なこの言葉だけど、ルディの歌声を通して僕にはこう言うふうに聞こえた。 

「私たちは解放されるべきなんだ。いつかその時は必ずくる。そしてそれは今だっていいんだ!」

そう言うふうに力強く歌っているように聞こえる。

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