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映画レビュー|「シン・エヴァンゲリオン劇場版」

レビュー書いてる時点でFilmarks平均スコアが4.5。こんなに高いスコアは見たことないですね(笑)。25年付き合ってきた長年のファンの熱さが垣間見れる。

かくいう僕は、小学校5年生で11歳の時からテレビ版を見てきた。当時、深夜アニメで放送していたエヴァの録画をマセたクラスメイト数人とワイワイ言いながら一風変わったロボットアニメとして楽しんでいた。(UCCのエヴァ缶をコンプリートしたくてコンビニはしごしたなぁ…)
あれから25年、今年で36歳になる。こんな歳になるまでエヴァンゲリオンにドキドキさせられるなんて夢にも思わなかった。

以下、ネタバレありです。ご注意を。


今作において僕が最も賞賛したい点は明確だ。
それは碇ゲンドウの幼少期から抱えるコンプレックスについて明確に表現したところ。しかも、わざわざ庵野さんが書いたのであろう絵コンテそのまま使う演出である。ここまで露骨に言わなくていいのにと思うほど、「今回は、碇ゲンドウに自分を重ねて全てを吐露します」と宣言していた。
エヴァンゲリオンという作品は結局のところ、碇ゲンドウにフォーカスしたことで終幕した。要するに、ゲンドウというキャラクターを通して庵野秀明という一個人が「この世の中は生きるに値するんだ」と答えを出すまでを25年かけて描いた物語だった、という表現が一番しっくりくる。

今作における碇ゲンドウはとてつもなく気持ちが悪い。普通に考えて、人として終わってない?それ、と言いたくなる程どうしようもない人間だ。
だが、それは同時に庵野秀明自身がそのように自己認識しているという事と同義なのだと思う。
ユイの死を受け入れられず、ただただユイにもう一度会いたいという願いのために何とも向き合わず、利用できるものは全部利用する。
幼少期から人と向き合うことが怖くて、ずっと一人。そんな人間が息子と向き合えるはずもなく、ただ一人心を許すことができたユイにのみ執着する。

庵野秀明はエヴァンゲリオンに着手する前に、数年間の空白期間があり精神的に不安的な時期を経ていると聞いたことがある。もしかしたらその間に大きな喪失を抱える出来事があったのかもしれない。前回のレビューである「フランク叔父さん」の方でも書いた「どんなに角度を変えて見ても起きなかった方が良い出来事」が起きてしまったのかもしれない。
そもそもこの作品はスタート地点から、庵野監督自身がその喪失について模索していく事が作品作りの原動力になっていたのではないか。

おそらく最初はシンジに自らを投影して始まった。その間、喪失の象徴であるレイの他に、アスカというキャラクターが生まれる。当初は、庵野監督自身が抱える幼少期からの他者とのディスコミュニケーションの問題や喪失の問題に対して、アスカという他者を迎えることで道を切り開く方向性だった気がする。
あえて言えば、アスカはシンジ(庵野)の初恋、または初体験の人というイメージを持つ。

だけど、結局のところ人生は何かの弾みで大きく変遷していく。学生の頃から長く付き合った彼女とお別れした途端、不意に出会った別の相手を簡単に結婚するといったよくある話と同じ。
それがマリだったという事なのだろう。つまりは安野モヨコ氏である。

例えば10代の頃から長く付き合った子との思い出は、まるでセカイ系のような世界観だろう。おそらく誰しもそういう傾向はあると思う。それが若いという事だから。

でもそういう時期は終わる。世界はこういうものだと思い込んでいたのに、簡単にその壁を超えて不意にやってくる他者がいる。その他者(マリ・安野)が簡単に軽やかに彼の世界を広げていく。そのようにして、このどうしようもない男(シンジ・ゲンドウ・庵野)は生きながらえていくのだろう。

ラストについて、誰かがシンジとマリがくっ付く終わり方に納得がいかなかったのか「あれは3年もすりゃ別れるパターンだろ」と言っていた。
僕からすれば、そんなの当たり前じゃんと思う。

だって、それが人生でしょ?庵野さんが25年かけて、ようやく人生を描く事を許せたってことでしょ?
それは祝福に値すると思うな。
僕はそう思う。

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