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テン・ナイン・ストーリーズ(ズ)

J.D.サリンジャー/と/訳者/と/読者に捧ぐ
九つの語る物は知る/十の語る物は?

 Which ”NINE STORIES” do you like ?

 サリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』が好きだ。
 新潮文庫で読んだ。だいたいみんなそうだ。
 2016年、僕は神保町で講談社文庫の『九つの物語』を発見した。
 2019年、僕は百万遍知恩寺の古本まつりで文建書房の『J.D.サリンジャー作品集』を発見した。
 そして10冊の『ナイン・ストーリーズ』をいつの間にやら手に入れていた。
 10冊と言っても、装丁が違うだけや版型が違うバージョン(基本的に中身は同じ)も混ざっている。
 この度、それぞれの訳で読んだのでそのレビューをしていこうという次第だ。違いを楽しんでみようという試みである。

10 "NINE STORIES"s

作品について

 まず言うまでもないことだが、『ナイン・ストーリーズ』はサリンジャー(Jerome David Salinger 1919.1.1-2010.1.27)の短編集である。
 1948年から1953年の短編から選ばれた9編が収められている。サリンジャーが自ら選んだ珠玉の名作が。他にも短編は数多くあるが、サリンジャーはそれを単行本化することを拒否した。海賊版として出版されるとサリンジャーは抗議をしたという。つまり、選び抜かれた9編が収められた作品集ということだ。サリンジャーの入門であり、最高傑作でもある。
 なので多くの訳が存在していることも不思議ではない。なんならもっと多くの翻訳を読んでみたい。英語でも読んでみたい。そして翻訳してみたい。

 そんな次第だ。

九つの物語たち

 ここからは手持ちの『ナイン・ストーリーズ』たちを紹介していく。
 タイトル横の角括弧[]内は訳年です。レーベル横の[]はその出版年。
【序文】~に捧ぐ。禅の公案。(/は改行)
【タイトル】各話のタイトル。注目ポイント。
【特徴】デザインとか訳とか。解説があるか。底本(記載があるもの)。定価等。
【感想】個人的な感想。
 の4つを主に紹介します。

 ではどうぞ。

①ナイン・ストーリーズ[1974]

 野崎孝 訳 (新潮文庫)[1988※]

おなじみの水玉

【序文】

ドロシー・オールディング/と/ガス・ロブラーノ/にささ
両手の鳴る音は知る。/片手の鳴る音はいかに?/――禅の公案――

【タイトル】

バナナフィッシュにうってつけの日
コネティカットのひょこひょこおじさん
対エスキモー戦争の前夜
笑い男
小舟のほとりで
エズミに捧ぐ――愛と汚辱のうちに
愛らしき口もと目は緑
ド・ドーミエ=スミスの青の時代
テディ

あとがき

【特徴】
 見慣れた(?)水玉デザイン。カバーは麹谷宏によるもの。手元にあるのは平成元年の三十八刷のもの。底本はLittle Brown and Company,1953を使用。定価360円(本体350円)。消費税3%が始まった頃である。

【感想】
 僕が一番最初に読んだ『ナイン・ストーリーズ』はこれだ。現代人の多くはこの訳で読んだことだろう。定番の訳だからだ。一番有名で、一番手に入りやすいというのもある。今読むと、たしかに、言葉は少し古臭いけれど、読みにくいということは決してない。そして何よりこの本のいいところは、括弧書きで訳注が丁寧に書かれているところだ。初心者(?)におすすめだと思った。

 ※昭和63年第三十三刷改版

②ナイン・ストーリーズ[1974]

 野崎孝 訳 (新潮文庫)[不明※]

最新版

【序文】同上

【タイトル】同上

【特徴】
 現状手に入る最新版(おそらく)。何刷からかは不明だが、折返しに著者と訳者紹介が記載されている。そして何刷からかは不明だが没年が記載されている(サリンジャーはそれらをやめろと言っていたが)。カバーデザインが水玉から変化。デザインは新潮社装幀室によるもの。旧デザインの契約切れとかそういう権利関係によるものかはわからない。①と文庫裏の紹介文が異なっている。定価:本体550円(税別)。

裏。紹介文の違いを味わう。

【感想】
 新しい新潮文庫のツルツルのカバー、ツルツルの紙。本書に限らずとても好き。世界一好きな文庫レーベル。中身の感想は①の野郎(こういう表現がよく出てくる)に委ねる。

 ※水玉じゃなくなった年の情報求ム

③ナイン・ストーリーズ[1974]

 野崎孝 訳 (新潮文庫)[2019]

2019

【序文】同上

【タイトル】同上

【特徴】
 毎年夏に行われている『新潮文庫の100冊』の2019年プレミアムカバー。上記②とカバーが違うだけである。②もこの③も、七十七刷をもっているので全く同じ。プレミアムカバーの最大の特徴は、文庫裏の紹介文が折り返しに書いてあること。定価:本体550円(税別)。

【感想】
 ところでなんでオレンジ色なんだろうか。カバーのザラザラの質感がよい。

④ナイン・ストーリーズ[1974]

 野崎孝 訳 (新潮文庫)[1974]

古ぼけている

【序文】同上(ただし、「捧ぐ」にルビが振られていない)

【タイトル】同上

【特徴】
 上記①~③は昭和63年33刷改版となって以降のバージョンであるが、これはそれ以前のオリジナルの文庫である。改版で大きく変更された点はフォントが大きくなり、一行の文字数が2文字減って読みやすくなった点である。たぶん。外見は、①と同じように見えるが、裏面にも水玉がある。紹介文も微妙に違う。新潮文庫が①の形態になってからは紹介文の文字数制限があるから文面が違うのだろう。枠にとらわれないで自由に改行しているのが素敵。最大の特徴は背が青いこと。そして新潮文庫〔赤〕とあるところ。赤は海外の作品の分類で1985年まで使われていたとウィキペディア(新潮文庫)には書いてある。そして訳も微妙に違う。といっても、「気狂い」を「狂っている」とかそんなふうに現代的観点から修正が入っている程度だと思われる。でも、「気狂い」のままの箇所も新しい方にはある。だからそういう修正ではないのかもしれない。見落としただけかもしれないが。¥280。

この方がおしゃれ。
新潮文庫〔赤〕なのに青い。下は①

【感想】
 基本的には①と中身は同じなので僕は読んでいない。読んだからといって一字一句見比べるわけじゃないので、どこが違うかを探すのは無理である。文字の大きさや配置の違いで、受ける印象は変わるかもしれないので、それを楽しみたい人は読めばいいんじゃないかな。

⑤九つの物語[1973※]

 沼澤洽治 訳 (講談社文庫)[1980]

バナナ魚

【序文】

ドロシー・オールディングとガス・ロブラーノの捧ぐ
「両手の鳴る音は知る。/片手の鳴る音はいかに?」/――禅公案より――

【タイトル】

バナナ魚日和
コネティカットのひょこひょこウサギ
対エスキモー戦開戦前夜
笑い男
小舟での出来事
エズメに――愛と汚れをこめて
我が人の口愛らしく目は緑
ド・ドミエ=スミスの青の時代
テディー

解説 沼澤洽治
文庫版への追記
年譜

【特徴】
 なんといっても「ヨショト」が「吉本」に改変されている。解説ではあえてそうしたと触れられている。また、解説にアンクルウィギリーの説明がある。なぜ「ひょこひょこウサギ」というタイトルにしたかがわかる。定価280円。

ナウなシティー感覚とクールな文体

【感想】
 一番クセが強い訳かもしれない。「ルームメイト」を「部屋仲間」、「ガスマスク」を「防毒面」と、いちいちこんな調子である。もちろん差別的表現はそのままである。原文に”negro”と書いてあったら「ニグロ」と訳すのが正確なんじゃないかと思う。しかし、その当時は黒人を指す一般的な言葉で侮蔑する意味合いは(意図は)それほどなかったのかもしれない。それなら「黒人」と訳しても正しい。僕の英語の知識が足らないからわからない。当訳では「ニグロ」が採用されていた。他の訳は同じシーンでもたいてい「黒人」とあって、そもそも原文も”negro”じゃない可能性がある。”Yoshoto”を「吉本」にする点も含めて、訳者のエゴが強い訳であることがわかる。

 ※元の訳は海外秀作シリーズ『バナナ魚日和』の1973年と思われる。文庫版は1980年刊行。文庫化にあたり改題。文庫化にあたり修正箇所等はあるかもしれない。

⑥九つの物語[1973※]

 中川敏 訳 (集英社文庫)[2007]

バナナフィッシュではなくバナナ

【序文】

(~捧ぐなし)
双手の打つ音を聞く。/さればせき手の打つ音はいかに?――禅公案――

【タイトル】

バナナフィッシュに最適の日
コネチカットのよろめき叔父さん
対エスキモー戦まぢか
笑い男
小舟のところで
エズメのために――愛と惨めさをこめて
愛らしき口もと目はみどり
ド・ドーミエ=スミスの青の時代
テディー

解説 中川敏

【特徴】
「~に捧ぐ」がない。定価 本体476円+税。

【感想】
『対エスキモー戦まぢか』好き。"just before"だから「まぢか」はかなりいい訳な気がする。少し言葉が古臭くて若干の読みにくさはある。しかしそれはサリンジャーが書いていた時代を考えると古臭い言葉のほうがしっくりくる気もする。文章の中身よりも、字間の問題かフォントの問題か、そういう点での読みにくさがあった。オリジナルの訳年や旧文庫の発刊年とか、77年の文庫の新版ですという説明がないのが気になった。

 ※元の訳は⑦の『世界文学全集45』の1973年と思われる。集英社文庫(旧版)の刊行年は1977年。現在販売されている文庫は2007年に改版として出版。もしかしたら全集と旧文庫と今の文庫では微妙に修正箇所があり訳が違うかもしれない。

⑦世界文学全集45[1973]

 中川敏 訳 (集英社)[1973]

箱入り

【序文】同上

【タイトル】同上。作品のあとに、後記、解説、年譜、著作年譜が載っている。

【特徴】
 実は文庫版と微妙に訳が違う。一字一句比べたわけじゃないけれど。『エズメ~』の、手紙の最後に弟が書き添えている箇所が少し違う。ここを他の訳と読み比べてみても面白い試みかもしれない。読み書きを覚えたての子供が書いた文章をいかに子供っぽく訳せるか選手権である。この全集の最大の特徴は、挿絵があることである。それはサリンジャーに許可とったのか? それと、ボールドウィン『もう一つの国』が同時に収録されている。奇しくもこちらは野崎孝の訳。世界文学全集全45巻の最後を飾るのがサリンジャーである。本書は『愛蔵版世界文学全集』らしいです。集英社は『世界文学全集ベラージュ』というのも刊行していて、そちらにも『九つの物語』は収録されている。底本はバンタム・ブック1968年版。定価2400円。

箱裏
中身

【感想】
 訳は⑥と基本的に同じと思われるので、その感想は⑥を参照。
 解説に目新しいことは書いていなかった。ただ、モノクロの写真が掲載されていた。1973年刊の世界文学全集に1953年の『ナイン・ストーリーズ』が収録されていることが驚きである。わずか20年で、世界文学全集に収録する作品だと判断されてしまっているのがすごい。そういうものなのか?

⑧J.D.サリンジャー作品集[1964]

 繁尾久・武田勝彦 共訳 (文建書房)[1964]

この男は誰なのか

【序文】

(~捧ぐなし)
「両手をたたく音をわれわれは知っている。/しかし、片手のたたく音はなにか?」/――禅の公案

【タイトル】
 括弧内は訳者。

バナナフィッシュ(繁)
女ごころ(武)
エスキモーとの戦い(繁)
奇面の男(武)
小舟にて(繁)
エズメのために(武)
男ごころ(武)
画家と修道女(繁)
テディ(繁)

訳者あとがき(繁)

【特徴】
 この意欲的なタイトル。勝手にタイトルつけすぎである。¥400。

文建書房のロゴが古臭さを感じるデザインだ。
ステンシルシートを用いて描かれたようなローマ字も古臭さを感じる。

【感想】
 勝手なタイトルだけれど、『奇面の男』と『画家と修道女』はいい感じだ。『女ごころ』『男ごころ』は読み方を規定してしまっている気がして良くないと思う。ていうかサリンジャーは勝手に邦題つけるのやめてと言っていた気がする。
 訳は下の⑨と同じと思われるので、きれいな⑨を読んだ。その感想は⑨に書く。⑨と同じ訳と思われるが、パラパラとめくっていると微妙に固有名詞とかが違うところがある。ジニーがギニィだったり。一字一句比較したわけではないので大きく違うところがあるかはわからない。
 訳者あとがきで、まだ日本ではサリンジャーの翻訳本があまりないけど、今後増えるだろうみたいなことが書かれていて、そういう時代に訳をしてサリンジャーを日本に紹介したというこの本の功績は大きいように思う。

⑨サリンジャー選集4[1968※]

 繁尾久・武田勝彦 訳 (荒地出版社)[1990※]

J.D.SALINGER IS WATCHING YOU !!

【序文】同上。ただし、「」と――がなくなっている。

【タイトル】

バナナフィッシュに最良の日
コネチカットのウィグリおじさん
エスキモーと戦う前に
笑っている男
小舟にて
エズメのために――愛と汚れ
美しき口もと、ひとみはみどり
ド・ドミエ・スミスの青の時代
テディ

『九つの物語』について<繁尾久/武田勝彦>
J・D・サリンジャー論――序説――<山屋三郎>

【特徴】
 上記⑧と基本的には同じ内容だが、作品タイトル等が異なる。また、この選集4には、滝沢寿三訳『大工たちよ、屋根の梁を高く上げよ』も収録されている。訳は少しだけ修正が入っていて、訳注も追加されている。いわば⑧の完全版。僕が持っている選集は新装版で、旧版も探しています。底本はLittle, Brown and Company。定価:本体1200円+税。

帯にもあるけど、現代人の分裂する心情てなんだよ。

【感想】
 本文とは関係がないけれど、カバーを外した本のデザインがかっこいい。

J.D.サリンジャーの青の時代

 もっと古臭い訳かと思ったけど、そんなことはなく存外読みやすかった。ところどころよくわからない日本語があるけど。「あなたって心臓ね」(p.35)とか。『小舟にて』の最後のユダヤ人がどうこういうくだりで、英語の言葉遊びの説明をきちんとしているのは本書だけだった。納得がいった。
 解説がすごい。これだけでも一読の価値あり。

 ※⑧とタイトルが違うので選集の出版年。新装版の出版年は調べても色々出てくるので正確な情報求ム。選集も新装版の奥付には1968年と書いてあるが、ググると1969年という情報が出てくる。

⑩ナイン・ストーリーズ[2009]

 柴田元幸 訳 (ヴィレッジブックス)[2012]

シンプルな表紙

【序文】

ドロシー・オールディング/と/ガス・ロブラーノに
両手を叩く音は知る、/ならば片手を叩く音は?/――禅の公案

【タイトル】

バナナフィッシュ日和
コネチカットのアンクル・ウィギリー
エスキモーとの戦争前夜
笑い男
ディンギーで
エズメに――愛と悲惨をこめて
可憐なる口もと 緑なる君が瞳
ド・ドーミエ=スミスの青の時代
テディ

(付録として、『ナイン・ストーリーズ』訳者あとがき(の・ようなもの)がついている)

【特徴】
 現状、最新の訳である。日本三大翻訳家の一人である柴田元幸氏の訳である。サリンジャーが勝手に解説とかつけるなと言っていたのを守っている。代わりにしおりのような格好であとがき(の・ようなもの)がついている。定価:本体600円+税。

村上春樹
チラ見せ(の・ようなもの)

【感想】
『ディンギーで』とか言われてもディンギーってなんだよってなる。日本語に訳すともとのニュアンスが薄れてしまう場合に(苦肉の策として)カタカナ表記にすることで英語の響きを大事にしようとしている(のか?)のはわかるけれど、正直なんのこっちゃわからないこともある。「アンクル・ウィギリー」も同様に。でも意訳する(しすぎる)のはどうかと思うし、括弧書きで説明をつけまくるのも野暮な気もするから難しい問題だ。
 そういう点以外は現代人が一番読みやすい訳かもしれない。一番新しいから当然そうあるべきだが。
 傍点が多くあるけれど、それは英語では大文字になっていたりイタリック体になっていたりするんだろう。野崎訳ではあまり傍点は見受けられなかったから訳者のスタイルの問題だろう。

(その他)

 その他のバージョンを紹介する。僕はまだ持っていない。各地の古本屋に通って出会う日を待つ。

 ex① 『九つの物語』鈴木武樹 訳(角川文庫)[1971]
 ex② 『サリンジャー作品集3』(東京白川書院)[1981]:ex①を収録
 ex③ 『九つの物語(現代の芸術双書Ⅲ)』山田良成 訳(思潮社)[1963]
 ex④ 『バナナ魚日和』(講談社)[1973]:⑤の単行本
 ex⑤ 『九つの物語』(集英社文庫)[1977]:⑥の旧版
 ex⑥ 『世界文学全集81』(集英社)[1978]:⑦のベラージュ版。エイジー『家族の中の死』金関寿夫訳も同時収録。
 ex⑦ 『サリンジャー選集4』(荒地出版社)[1968]:⑨の旧版。
 ex⑧ 『ナイン・ストーリーズ』(ヴィレッジブックス)[2009]:⑩の単行本
 ex⑨ 『モンキー・ビジネス 2008 Fall vol.3』(ヴィレッジブックス)[2008]:⑩の雑誌掲載版?
 ex⑩ 『ナイン・ストーリーズ』(講談社英語文庫)[1997]:英語版
 ex⑪ まだ見ぬその他。Little, Brown and Companyの原著とか。

『ナイン・ストーリーズ』の収録作全てではなく、いくつか選んで訳されたものもある。
 se① 『よごれのエマ 笑う男(双書20世紀の珠玉15)』福井正城 訳(南雲堂)[1963]:ウィリアム・マーチ『よごれのエマ』同時収録。『エスキモーとの開戦近し』『笑う男』『愛することとみじめさと』『バナナ魚最良の日和』の4編を収録。
 se② 『ニューヨーカー短篇集Ⅱ』(早川書房)[1969]:『バナナ魚には理想的な日』収録。橋本福夫 訳。

 繁尾久・武田勝彦訳はグーテンベルク21という電子出版のバージョン[2022]もある。
 これだけの種類の『ナイン・ストーリーズ』がある。調べきれていないだけでもっとあるかもしれない。それだけサリンジャーは魅力的だということか。きっと『ナイン・ストーリーズ』はこれからも読まれ続けるだろうし、新しい訳も生まれ続けるだろう。

収録作品

 各作品について、個人的な感想等を書いていく。
 僕の解釈が正解なのかはわからない。べつにどうでもいい。みんな好きなように読めばいい。
 断りがなければ、人名や引用箇所は②の最新の新潮文庫版から引いています。

 各タイトルの訳を最初にまとめている。
 野:野崎孝:新潮文庫(①~④)
 沼:沼澤洽治:講談社(⑤)
 中:中川敏:集英社(⑥、⑦)
 作:作品集(⑧)
 選:選集(⑨)
 柴:柴田元幸:ヴィレッジブックス(⑩)

 次に、適当なあらすじを書いている。ネタバレ? 知らんな。

(序文)

We know the sound of two hands clapping. But what is the sound of one hand clapping?

隻手音声

 これは短編集の序文であって小説ではないけれど、こんな些細なところにも訳の違いがあって面白い。
 ていうか「~に捧ぐ」を訳さないものがあるのはどうなんだ? と思うと同時に、訳のもとになった底本の違いによるのかもしれない。そもそも英語で「~に捧ぐ」がないバージョンを底本にしていたら訳はなくて当然だ。そういうことなのかは知らんけど。

A Perfect Day for Bananafish

『バナナフィッシュにうってつけの日』(野)
『バナナ魚日和』(沼)
『バナナフィッシュに最適の日』(中)
『バナナフィッシュ』(作)
『バナナフィッシュに最良の日』(選)
『バナナフィッシュ日和』(柴)

もっと鏡見て(シー・モア・グラース)。
グラースサーガはここから始まった。ミュリエルとその母、シーモアと思われる男とシビル・カーペンターの会話劇。そして自殺する有名なラスト。

バナナフィッシュにうってつけのあらすじ

 衝撃のラスト、というやつだ。”Bananafish”はともかく、”A Perfect Day”をどう訳すかがどれも特徴的である。そうきたか、そっち派か、となってナイン・ストーリーズの邦訳の注目ポイントでもある。そしてみごとに全部違う。個人的には『バナナフィッシュ日和』が好き。というか一番自然な日本語な気がする。作品のタイトルだから自然な日本語である必要はないけれど。
 この小説を読んでいると違和感があちこちにあるんだけれど、それをああだこうだ考えた『謎解きサリンジャー 「自殺」したのは誰なのか』という本がめっちゃ面白かったです。

 ”See more glass”と”Seymour Glass”をかけているシーンでは、だいたいどの訳も”glass”を「鏡」と訳している。でも”glass”という言葉は「(飲み物を入れる容器としての)グラス」あるいは「ガラス」のイメージが先行する。「鏡」という意味はあるけれど、「もっとグラス見て」の方が日本人的には自然な気がする。アメリカ人的には”See more glass”という文字列に対して「鏡」が想起されるのだろうか。”mirror”じゃなくても。

Uncle Wiggly in Connecticut

『コネティカットのひょこひょこおじさん』(野)
『コネティカットのひょこひょこウサギ』(沼)
『コネチカットのよろめき叔父さん』(中)
『女ごころ』(作)
『コネチカットのウィグリおじさん』(選)
『コネチカットのアンクルウィギリー』(柴)

エロイーズの家にやってきたメアリ・ジェーン。二人がお酒を飲みながらおしゃべりする。昔のボーイフレンドの話。そして娘の架空のボーイフレンド。おじさんの正体とは――!?

コネティカットのひょこひょこあらすじ

 まず気になるのが、メアリ・ジェーンというのはマリファナの隠語であるということ(もちろん一般的な女性の名前なこともわかる)。だからなんだと言われてもあれだけど。でもこの物語の背景にマリファナがあると思いながら読んでしまう。
 僕は最初何気なくこの小説を読んでいたわけだが、メアリ・ジェーンがマリファナの隠語だということを思い出してから、書いてある言葉を書いてある通りに受け取らないほうがいいのではないかと思い始めた。サリンジャーの言葉を僕は疑い始める。
 例えば、こんなシーンがある。雪の降る外から帰ってきたラモーナ(エロイーズの娘)を見て、メアリ・ジェーンは「まあ、きれいなドレスだこと!(②p.44)」と言っている。僕は思った。きっと服は汚れているんだと。幼い子供が外で雪遊びをして(かどうかは知らない)帰って来たのだからきれいわけがない。久しぶりに会った知り合いの娘に対して「かわいいね」という意味で言っている。皮肉を言っているのではなく、寒いのに外で遊んできて元気いっぱいでいいねという意味を暗に含んでいる。
 別のシーンでは、グラスの中身を絨毯にこぼしてしまうが、直接そう描写はされていない。二人の会話からそう推測できる。

「あっ、いけない! ほら、あたし、こんなことしちゃった。ごめんね、エル」
「いいわよ、放っといて」と、エロイーズは言った「どっちみち、この絨毯、あたし大嫌いなんだ。もう一杯作って来よう」

②p.43

 もちろん直接描かれていないから、別のものをこぼしたあるいは失禁した可能性もある。そして、それとは関係なくお酒をもう一杯作るという話の可能性もあるけれど、それは小説としては不自然なので、グラスの中身を絨毯にこぼしたと読み取れる。英語ではどう書いているか知らないけれど。もちろん本人の不注意でこぼしたのだろうが、彼女の名前はメアリ・ジェーンつまりマリファナで手元も足元もふらつきグラスをしっかりと持っていられないのかもしれない。禁断症状で手が震えるとかそういう事かもしれない。僕は考えすぎかもしれない。
 こうやって書いてあるシーンにも書いてないシーンにもなにかしら意図があるのだと思って読んでしまう。
 なお、(作)と(選)では「こぼしてしまった」とセリフに書かれている。

 ”Uncle Wiggly”をどう訳すか問題。
 ウィグリーおじさんというのは、アメリカの児童文学作家ハワード・ゲアリスの書いたシリーズ物の主人公の気まぐれウサギのこと、だそうだ。なので(沼)では「ひょこひょこウサギ」となっている。けれど、あのシーンは足首(ankle)とおじさん(uncle)をかけているのであって、ウサギじゃ意味わからなくない? と思った。
 元ネタのキャラクタを知っているなら、(選)か(柴)のタイトルがしっくりくる。難しい問題だ。

Just Before the War with the Eskimos

『対エスキモー戦争の前夜』(野)
『対エスキモー戦開戦前夜』(沼)
『対エスキモー戦まぢか』(中)
『エスキモーとの戦い』(作)
『エスキモーと戦う前に』(選)
『エスキモーとの戦争前夜』(柴)

ジニー・マノックスVSセリーナ・グラフ。「指の野郎を切っちまってさ」セリーナのお兄さんはエスキモーとの戦いに行かなくてもいい。ジニーとセリーナの兄との会話劇。

対あらすじ戦争の前夜

 ”Just Before”に「前夜」という意味があるのだろうかと一瞬思うが、「前夜」という日本語はべつに前の晩のことではない。キューバ危機で核戦争が始まりそう、みたいな状況と同じ意味だろう。
 この短編が一番意味がわからない。エスキモーとの戦争の意味がよくわからない。60歳くらいのやつらが行く、の意味もわからない。適当な冗談を言っているという意味なのかもわからない。
 ジニーはセリーナの兄に好意を抱いているように読み取れる。そういう話かもしれない。心臓が悪くて戦争に行けなく飛行機工場で働いていたというセリーナの兄は、それを恥じているけれど、ジニーはそんなことないとフォローする。そういうところをかわいい人だと思っている、ように見える。彼にもらったサンドイッチを捨てられなかったジニーもかわいいと思った。

The Laughing Man

『笑い男』(野、沼、中、柴)
『奇面の男』(作)
『笑っている男』(選)

われらコマンチ団の団長のガールフレンドとの楽しかった野球。団長の語る笑い男の運命やいかに。センチメンタルな青春のいち場面。

あらすじ男

 団長の語る笑い男はなにを意味しているのだろうか。特になんの意味もないのだろうか。人種差別のメタファーだろうか。奇形児のメタファーだろうか。そして笑い男のビジュアルがイメージできない。少年たちは、親に捨てられた形となった笑い男と自分たちを重ねている。親の庇護のもとで生活しているけれど、一人でやっていけると思ってしまう少年らしい感性に笑い男のストーリーが響くのかもしれない。笑い男は一人でも強くて動物と会話ができて、少年たちにとっては憧れのようなものでもあるのだろう。同様に団長は尊敬すべき大人のお兄さんで、その団長がガールフレンドに振り回されているさまを見て少し情けなさも感じ取ってしまっているだろう。でもそれは現実を知るということでそうやって彼らは大人になっていくのだろう。笑い男の話だって終りがある。懐かしい青春時代だって終わってしまったから語ることができるのだ。
 主人公の一人称が訳によって「ぼく」だったり「私」だったりする。少年の語りだという視点で見れば、「ぼく」が一番しっくり来る。大人になった少年が語っていると思えば「私」でも違和感はない。日本語の難しい点だ。

Down at the Dinghy

『小舟のほとりで』(野)
『小舟での出来事』(沼)
『小舟のところで』(中)
『小舟にて』(作、選)
『ディンギーで』(柴)

ブーブー・タンネンバウム(旧姓グラス)と息子との会話劇。ユダ公? ユダコってのはね、空に上げるタコの一種だよ。

あらすじのほとりで

 父親がユダ公だと言われてショックを受ける少年。それを包み込む母の愛。強く生きねばならない。そして父親がユダヤ人なのはサリンジャー自身のことで、彼がそれを題材にすることはほとんどないとどこかで見た。
(野)と(沼)では「ユダ公」は「ユダコ」だと言葉遊びがあるが、これがうまい訳なのかよくわからない。(中)では、「ユダやっこ」「奴凧」、(柴)では「ユダ公カイクって何だか知ってる、ベイビー?」となっている。この言葉遊びの答えは、(作)(選)にあった。ユダヤ人に対する蔑称”kike”と凧”kite”をかけている。kiteってのはね、と子供の聞き間違いということにしてやり過ごすブーブーであり、それは女中を(少なくとも子供の前では)悪く言わないブーブーが描かれる。そこで激昂して「あいつ!」とはならない立派な大人を描いている。この名シーンを描きたいがために書かれた小説なんじゃないかな。

 ディンギーという言葉は一般的ではないと思っていたけれど、『白いパラソル』という歌謡曲の歌詞に「ディンギーで」とあって、もしかして一般的な語彙なのかと戸惑いがある。(柴)のタイトルが『ディンギーで』となっていてなんのこっちゃわからないとなったけれど、柴田氏的にはそれぐらい市民権を得ている言葉ならわかるだろうという判断か。

For Esmé――with Love and Squalor

『エズミに捧ぐ――愛と汚辱のうちに』(野)
『エズメに――愛と汚れをこめて』(沼)
『エズメのために――愛と惨めさをこめて』(中)
『エズメのために』(作)
『エズメのために――愛と汚れ』(選)
『エズメに――愛と悲惨をこめて』(柴)

結婚式の招待状を受け取った男(シーモアだと考えられている)は新婦のことを回想する。彼女のために短編を書くんだった――その短編こそがこれ(かどうかは知らない)。戦時中の穏やかなひととき。サリンジャーも自身の体験を元に書いたのかもしれない。

エズメのために――愛とあらすじ

 ”Squalor”をどう訳すか、人類の永遠の課題。

squalor(名)不潔さ,むさ苦しさ;卑劣

ジーニアス英和辞典 第3版

squalor [noun] dirty and unpleasant conditions

オックスフォード現代英英辞典 第7版

 なるほど。「惨めさ(中)」とか「悲惨(柴)」は近いのかもしれない。

 この作品の曹長はシーモアだと言われている。そう読み取れるようにサリンジャーは書いているし、世間は勝手にそう読み取っている。もちろんサリンジャー自身の戦争体験をもとにしたキャラクタなのは言うまでもない。
 後半部分で、私は巧妙に扮装していると書いているのに明らかにX曹長なことの意味がよくわからない。
 あと、最後の文章の意味もよくわからないのでしばらく考えます。

Pretty Mouth and Green My Eyes

『愛らしき口もと目は緑』(野)
『我が人の口愛らしく目は緑』(沼)
『愛らしき口もと目はみどり』(中)
『男ごころ』(作)
『美しき口もと、ひとみはみどり』(選)
『可憐なる口もと 緑なる君が瞳』(柴)

酔っ払った知り合いの男が、妻が帰ってこないお前知ってるかという電話をかけてくる。人の話を聞かないで言葉にかぶせて喚き立てる。すぐ帰ってくるから早く寝ろと助言する男の横にいる女はその当人であるように思われる。でも、すぐにまた電話が来て妻が帰ってきたと言う。どういうことなの。

愛らしきあらすじ目はみどり

 電話をかけてきた男が狂っている、という話のように思うように書かれていると思う。しかもニューヨークではみんなノイローゼみたいなものだと自分で言っている。でも、本当は電話などかかってきていなくて、二重人格の男の一人芝居なのかもしれない。
 この作品では雨が降っている、と僕は感じた。天気のことなんて書いていないのに、雨が降っている気がする。なぜだろう。でもそう思ったらそういう気がしてくる。夜中で土砂降りの雨の方が電話の相手がやってこない気がする。こんな天気の中を来ないだろうと主人公は思っている気がする。その方が主人公の心情としては納得がいく。同時に冬の静かな夜のイメージも浮かぶ。静かな夜を破る電話の音。さっきまでの穏やかな時間は遠い昔。そういうふうに思いながら読めばそんな気がしてくる。

 この小説ではやたらと目の動きが描写されるが、これはいったいどういうことだろう? ベッドに寝転がって電話に出ているから目の動きぐらいしか描写するものがないということもある。目の動きや無意味な手の動きは、電話をしている人間の手持ち無沙汰な様を表していて見事だと思う。ちょっとした焦りや苛立ちを感じて無意識に体が動いているのだろう。そういうふうに読み取れる。
 でもそれではこの不可解な小説の謎を解き明かすことはできない。
 まず最初のシーンで電話がかかってきて、ベッドに横になった白髪まじりの男は片方の目を固く閉じて、左にいる女を見ている。
 電話が再びかかってきたシーン。妻が帰ってきたと電話の男(アーサー)が言う。「なに?」というセリフのあと、白髪まじりの男は意味もなく左手を目の上にかざしている。スタンドは後ろにあるから眩しくなんかないのに。そのまま電話を続ける。「あんたは別だけど――ニューヨークでおれたちの知っている連中は、みんなノイローゼみたいなもんだからさ。分かるだろ、おれの言う意味?②p.198」その声を聴きながら男の目は閉じられる。なんてこった、どういうことなんだという混乱を表しているように見える。
 ところで、もう一度。本当は電話などかかってきていなくて、二重人格の男の一人芝居なのかもしれない。
 電話がかかってきて、目を閉じて、もうひとりの男が出てきた。片方の目としか書かれていないが、状況的にこれは右目を閉じている。「片方の目――灯りを受けているほうの目――は固くつぶり(②p.178)」とあるので、左にいる女の方を向いて(右側を上にして)いるので、右目が灯りを受けていると考えられる。
 そして後半では「目の上に左手をかざした(②p.197)」とある。左手をかざすのは左目と思われる(右目じゃない保証はないし両目の可能性もあるけれど)。
 前半では右目を閉じ、後半では左目を隠し光を遮っている。ここで何が起こったかというと、人格の入れ替えである。
 アーサーは肉体を取り戻すために電話をかけて揺さぶりをかけている。リーの意識を混乱させ、正常に保てなくなったときを見計らって肉体を奪い返す。左目に宿るのがリーで、右目に宿るのがアーサー。肉体の支配を徐々に奪い、左手を動かして左目を隠す事ができた。それ以降の白髪まじりの男はアーサーで、電話の男はリーになっている。そのあとは、電話の会話のやり取りと、白髪まじりの男の動きの描写が続く。白髪まじりの男は終始、「白髪まじりの男」としか描写されていない。文脈的にリーという名だと読み取れるのに。リーがどうしたとかアーサーがどうしたとかは書かれていない。白髪まじりの男の肉体に宿る二つの人格の話だとしても違和感はないようになっている。
 論理的にこの物語を解釈するならこの考えが妥当だと思う。
 もちろん他の可能性もある。女が双子で、隣りにいるのは、電話の相手の妻だと白髪まじりの男が勝手に勘違いしているとか。双子のもう一人はちょうど家に帰ってきただけ。それもそれなりに筋が通る。というか目の前にいるのが電話の相手の妻だと明確には描写されていない。読者が勝手にそういうふうに想像しているのだから、双子説も有力である。妻が帰ってきた? じゃあ目の前の女は誰なんだ。幻覚かなにかか? 実は双子でした。というふうに。
 僕が二重人格説を推す根拠は他にもある。
 例えば、白髪まじりの男は平均4時間ぐらいしか寝ないと言っている。これは、夜中に電話かけて迷惑じゃなかったか起こしちゃったんじゃないかという電話の向こうの声に対して気にするなという意味で言っているシーンだ。でも、本当に4時間ぐらいしか寝ないとしたら? 二つの人格で一つの肉体を共有しているなら? 単純に1日に12時間ずつ肉体の支配権を得られるとするなら、8時間睡眠(肉体の)のうち、片方の人格が4時間ずつ睡眠をとっていると考えられる。
 こんなシーンもある。「うちの女房ってのは信用ならんのだ。(中略)あいつが信用できるのは、せいぜい目の届くとこにいるときだけ――でもないや、何が届くとこかな。(中略)おれは頭がどうにかなりそうだよ②p.183-184」信用ならないのは、自分が肉体を支配していない間の話である。信用できるのは、どんなときかをうまく言語化できないでいる。自分が肉体を支配しているときだと。でもきっと二重人格のことをはっきりとは認識していないのだろう。だから、言葉にできない。そしてここの数行前に「おれはもうへべれけに酔っちまって、身体もろくに――(②p.183)」とある。身体もろくに(千鳥足でまっすぐ歩けないぐらい酔っているから)動かせないと読み取れるが、二重人格だと考えると、身体もろくに(肉体を支配できないから)動かすことができないと読み取れる。
 もうひとつ、重大な示唆を与えてくれるシーンがある。「実を言うと、きみの最大の敵はきみ自身――(②p.192)」とのこと。きみがしっかりしないから奥さんは帰ってこないんだよ、帰ってきたときにそんな情けない態度じゃ愛想尽かされる、それにきみが彼女を信用してあげないといけない、というような意味が包含されている。もちろんセリフの意味はそういう意味だろう。これは、読者に対するサリンジャーからのメッセージで、自分自身が敵、もう一人の自分(人格)が敵だと伝えて、この物語が二重人格の男の話だと教えてくれている。
 やれやれ、この考察は、野崎訳を読んだときに浮かんだ遊びである。野崎訳の日本語をベースにこういうふうに読み取れるという冗談なので本気にしないでください。きちんと考えるなら英語でなんて書いてあるかを読み取らないといけないのであしからず。でもなんか違和感ありまくりだからみんな色々考えるがいいや。本作が掲載されたのは『ニューヨーカー』でニューヨークではみんなノイローゼなんだ。分かるだろ、おれの言う意味?

De Daumier-Smith's Blue Period

『ド・ドーミエ=スミスの青の時代』(野、中、柴)
『ド・ドミエ=スミスの青の時代』(沼)
『画家と修道女』(作)
『ド・ドミエ・スミスの青の時代』(選)

経歴を偽って、ヨショト氏の経営する美術学校で講師を勤める男の話。辻褄を合わせるようにうまいこと嘘を考え、調子のいい言葉ばかりが口をついて出る。生徒である修道女と文通をし、あわよくば会いたいと思っている。ネットで知り合った人にあってはいけません、の元祖。

ド・ドーミエ=スミスのあらすじの時代

 僕は今回5種類の訳を読んだんだけど、最後に読んだのは(野)だった(⑩⑥⑤⑨②の順、ほかは訳自体は同じなので解説以外読んでいない)。他の訳でこの話を読んだときに、朝の4時のシーンのあとに3時半が云々というシーンがあって混乱した。野崎訳では注釈を入れて、矛盾しているが原文ママと書いてくれていた。やっぱり自分の勘違いじゃなかったんだと安心した。なにか意図があるわけではなく、単なる間違いということでいいのだろう。
 この話の主人公は嘘を重ねるし、大げさな表現をして話を盛る。とても魅力的だ。現実にいたら何だこいつってなるだろうけれど。
 この物語は顔も知らない生徒のシスター・アーマに主人公が一方的に恋い焦がれ、整形器具店のショー・ウインドー越しに女性を見てから正気に返る、というような話だ。これをどのように解釈すればいいのか僕にはわからない。ショー・ウインドーの中の女性を見て現実を知ったのかもしれない。勝手に(超可愛いと妄想して)憧れている神秘的なシスター・アーマは平凡な人かもしれないと気づいた。あるいはショー・ウインドーの中の女性の存在によって、会ったこともないシスター・アーマに恋するのは無意味で現実に手が届く人を相手にしたほうがいいと気づいた。ショー・ウインドーに手を伸ばすがガラスにぶつかって、シスター・アーマとの間に見えない壁があることを知った。どういう解釈が正解なのだろうか。
 すべての人が尼僧なのだ(②p.247)とあるように、神秘的な女性はシスター・アーマだけではなく他にも身近にいると気づいたというのが正しい気がする。その衝撃をあまりに大げさに書いているから一瞬、なんのこっちゃとなる。結局、そういう夢を見ていた青春のいちページというのがジャン・ド・ドーミエ=スミスの青の時代だったのだろう。

Teddy

『テディ』(野、作、選、柴)
『テディー』(沼、中)

天才少年テディ。東洋思想を取り入れ、死に向き合う。最後を飾るにふさわしい名作。

あらすじィ

 衝撃のラスト、というやつだ。天才少年テディは予言(?)通りにプールに落ちて死に妹の悲鳴が響き渡る。水泳のときの水が耳に残っているといって唐突に右耳を片手で叩くシーンが、片手の鳴る音だという解釈が有名だが、空っぽのプールに落ちる音も序文の公案に対する答えの一つかもしれない。いずれにしろ、音を出して終わる。バナナフィッシュで拳銃の音で終わって、テディでは悲鳴で終わる。短編集の最初と最後の作品で同じように音を出して終わるというのは意図的だと思わないほうが難しい。というようなことが前述の『謎解きサリンジャー(以下略)』に書いてあった気がする。僕はただ短編を集めただけで、そんなコンセプトアルバムみたいなものだと思っていなかった。サリンジャーの意図がなんであれ、最後に置く作品は『テディ』以外ありえないと思わせる作品だった。
 22ポンドで買ったカバンの上に、平均体重より13ポンド足りないテディが乗っている。という言葉遊びのシーンが印象的だ。通貨の単位と重さの単位がどちらもポンドだから成立するジョークなので、ここはポンドで訳してほしい。(柴)では6キロ半となっていて残念だった。

まとめ

 基本的にどの訳もそんなに読みにくいということはない。個人的に読みやすいと思う順は、(野)、(柴)、(作)(選)、(中)、(沼)の順です。やはり野崎訳は日本で市民権を得ているというか、サリンジャー=野崎訳というのが浸透してしまっている。一番ふさわしい訳だと錯覚してしまう。野崎訳も少し古臭いけれど、サリンジャーが古臭い英語を使っている(知らんけど)のならその訳の方がいい気もする。同時に、意図的に古臭い英語を使っているのでないなら、現代日本語訳で訳したほうが翻訳としては正しいあり方な気もする。僕はずっとそういう問題を考えているし、同じ作品を複数の訳で読むと考えさせられる。
 野崎訳がおすすめなのは、聖書が新共同訳が一番広く普及しているからそれがおすすめだよというのと同じ。最新の訳で読みたい人は柴田訳を読めば良い。訳注や解説も充実していて手に入れやすいのはやはり野崎訳なので、やはり初心者はこれがいいのかもしれない。
『ナイン・ストーリーズ』普及委員会じゃないので、読まなくてもいい。僕は勝手にまた読むだろう。『ナイン・ストーリーズ』を読んだ人生と読まなかった人生があるだけだ。

あとがき

 今回、同じ作品を違う訳で読み比べてみて、こんなに違うものなのかと思うと同時に、翻訳者の責任を感じた。最初に手に取った翻訳でサリンジャーの印象が変わってしまう。野崎訳がいちばん有名だからみんなそれがサリンジャーの口調だと思ってしまっているのように。
 そしてまた、みんなもっと『ナイン・ストーリーズ』を訳せばいいと思った。それだけ魅力的な作品だから。そう思っているのは僕だけかもしれないが。最近、サリンジャーを訳している金原瑞人さん(『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる/ハプワース16、1924年(新潮社)』『彼女の思い出/逆さまの森(新潮社)』)や村上春樹さん(『キャッチャー・イン・ザ・ライ(白水社)』『フラニーとズーイ(新潮社文庫)』)あたりにやはり訳してほしいものである。でも新潮社は野崎訳があるから違う出版社がいいのかな。そんなことを思った。
 短い期間にこんなに連続して『ナイン・ストーリーズ』を読んだら、もうしばらくサリンジャーを読みたくはならないだろうと思っていたが、逆だった。むしろもっとサリンジャーに興味が湧いた。持っていなかった本を買ってきて、古本屋でまた探してしまうだろう。サリンジャーの他の作品を読むことによって『ナイン・ストーリーズ』への理解が深まるかもしれないし深まらないかもしれない。そんなことはわからない。そしてグラスサーガの作品のつながりじゃなくて、それぞれを一つの作品として楽しむ方がもしかしたらいいのかもしれない。そのうち英語で読み始めるかもしれない。ニューヨークに行って聖地巡礼するかもしれない。隠居するかもしれない。拳銃で自分の右のこめかみを撃ち抜くかもしれない。
 いまだ未所持の『ナイン・ストーリーズ』を手に入れたらまた僕は追記、あるいは第2弾を書くのだろう。そのときには片手の鳴る音を知ることができるだろうか。

 終


 

 そういえば今度、河出文庫で柴田元幸訳が出るそうですよ。⑩と同じだと思いますが当然買いますよ。

 うふふ。

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