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若い現代詩――詩の現在と喩法

ほぼ日アーカイブ「吉本隆明の183講演」から「若い現代詩ー詩の現在と喩法」(A065/1982年)を聞いて考えたこと。7回目。

メインカルチャーに対してサブカルチャーが登場し、二つの言葉や語法が生まれたような気になる時代があった。明らかに並行路線だったのだろう。しかし、時が進むにつれて並行である続けることが無意味に覚えてくる。

両方が歩み寄ると宣言をするまでもなく、お互いに同じところを見ながら、似たような表現を使うようになる。一つに、日常生活で使っている言葉への拘りである。

学問の世界にあるような抽象概念に満ちた言葉を使うのではなく、普段の生活の視線が大事にされ、そのレベルで分かることが「分かる」という言葉の中身であると認識されるようになる。

その一方で、「分かる」ことの難しさも体感するようになる。特に抽象概念を表現する言葉を使わずとも、日常の言葉で表現したからといって、何から何まで「分かる」わけでもない。同時に「分からない」ことを如何に分からないままにしておくか?も見直されるようになる。

即ち、分野が、あるいは守備領域が違うから「分からない」話は何とかなる。しかしながら、そうしたレベルを超えた「分からない」にどう立ち向かうのか?これはまったく違うアプローチをとらないといけない。

まず、自分が今、どの地点に立っているのか。守備領域の話で躓いているのかどうか、これは最初に認識しないといけない。

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