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究極の左翼性とは何かー吉本批判への反批判

ほぼ日アーカイブ「吉本隆明の183講演」から「究極の左翼性とは何かー吉本批判への反批判」(A105/1987年)を聞いて考えたこと。6回目。

ある考え方やグループにラベルをつけにくくなった1987年、唯一の党派性は資本主義か社会主義かだけである、と吉本隆明は語った。一般大衆が主役になったとき、一般大衆の声をどれだけ分かるか。問題はそこにしかない。左翼や右翼であることに意味がなくなった、と。

この2年後、ベルリンの壁が崩れた。

2011年の福島の原発事故以降の風景をみても分かるように、党派という枠組みをとることに抵抗を覚える、あるいは党派が戦術上必要な人たちも当然ながらいる。どこの世界のどのフィールドにおいてもなくなることはないだろう。

しかしながら、あらゆる人たちがラベルでいえば複数のラベルをもつようになり、そのラベルがピラミッド型に組み込まれなくなってきた(ように見える)現在、やはり1987年の吉本隆明の指摘は突き抜けていた、としか言いようがない。

それにしても、一般大衆という言葉には労働者というポジションから発展してきた印象がどうしてもつきまとった。ところが今、一般大衆に名前はないのではないか。新聞をまだ紙で読む人たちとか、SNSでしか情報をとらない人たちという表現はあるが。

それが、このおよそ30年が過ぎトンネルから抜け出た時に見えた景色ではないだろうか。仮にトンネルに入っていたとするならば、だが。

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