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ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15-18世紀 日常性の構造』第1章 数の重量:生物学的旧制度は18世紀とともに終了する

表記の読書会メモ

18世紀とは生物学的旧制度が終了した世紀として解釈できる。

生物学的旧制度とは何か?次のような状況を指す。

出生と死亡の数が鋸線上の曲線を描いていた。出生が増えた時期を過ぎると死亡が増える時期がやってきて、その後にまた出生が増える。このパターンが繰り返される。そして高い幼児死亡率。定期的に繰り返される飢餓とそれによる慢性的栄養失調がある。そして、これまた頻繁に襲う流行病である。

想像を絶する光景があらゆる場所で繰り広げられ、そのなかで常に貧乏人があらゆる災害の被害をひどく受け、金持ちや権力のある人はそれらをかろうじて逃れる可能性が高い。例えば、飢餓の場合、作物の現場により近い農民の方が都市住民よりも生きながらえると想像するかもしれない。逆である。都市の方が市場の利用で遠隔の食料も調達できるからだ。

一方、疫病が流行ると都市の城壁内に感染した貧乏人を封じ込め、金持ちは田舎にある別荘に逃げ込むとのシーンも見られた。流行病とは関係なく、飢餓から自らを守る上層市民の様子を象徴的に描く事例として、1656年のディジョンにおける市当局の対応がある。個人的慈悲や貧乏人を家に泊めることを禁じたのである。

トゥールズの有産市民は1561年、「前述の伝染病(ペスト)は、まったく貧民しか襲わなかった。恩寵ふかき神は、そのことを満足に思ってくださいますよう。金持ちは身を守るのである」と平然と書いていた。

これらは西ヨーロッパであるが、東ヨーロッパ、さらにそれ以外の地域はもっと凄まじい光景が展開されていた。

人間は他の生物を支配し、それらを捕食獣として<巨視的寄生虫>を実践したが、同時に、微生物・細菌・ウィルスなどのもろもろの限りなく小さな生体に攻撃を受け、人間自身が<微視的寄生>の餌食となってきた。そして、人類は絶えず不安定な食料供給に脅かされながら、病気に追い回されてきたのだ。

こうした状況ー生物学性旧体制ーが、西ヨーロッパの一部の地域で脱却をはじめるのが18世紀だったのだ。ただし、その進歩は緩慢であり、18世紀においても死亡率の再上昇はあきらかに見られたのである。このように18世紀以前は非常に生きがたい世界であった。だが、その一方、度重なる災難に遭遇しても、短期的にカオスから回復する力があったことも注目すべき事実である。

結局において、数多の奇襲をうけて壊滅的になったように見えても、着実に長期的な上昇が得られたのである。

<分かったこと>

中世において外科医学の知識を有していたのは聖職者であったが、実際の手術は身分の低い理髪師に任されていた。外科医学がフランスで興隆したのは17世紀半ば以降だという。これはニュートンの自然科学における業績とほぼ同じ時期である。つまりこの時期になんとかして生きづらさから逃れる試みとして、科学的な考え方を採用をせざるを得ない状況になっていたのではないかと推測される。ちょうど30年戦争によって疲弊していた時期だ。因みに、生物学的旧制度との表現はフランス革命以前の体制のアナロジーと思われる。

写真©Ken Anzai

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