エットーレ・ソットサスの自伝を読んで気づくこと-1
1980年代、世界のデザイン界を騒がせた文化運動、メンフィスを主宰したエットーレ・ソットサス(1917-2007)の自伝、"Scritto di notte" (和訳は『夜ノ書 エットレ・ソットサス自伝』)はイタリアデザインの「裏のヒストリー」を知るに、とても参考になる。
エットーレ・ソットサスが生れ、幼少期を過ごしたのはオーストリアのインスブルックである。父親がイタリア人の建築家、母親がオーストリア人だった。父親はインスブルック、イタリア北部のトレントで仕事をしていたが、19世紀までに主流だった建築とは違うモダンな建築を設計したく、当時、新しい建築設計を試せる工業都市としてのトリノに移転したのだった。
その父親がムッソリーニの時代、トリノの街の軸となるローマ通りを「ローマ帝国風」にするプロジェクトの提案に関わった。しかし、チームを一緒に組んだメンバーの誰も「ローマ帝国風」など見たこともなく、提案はムッソリーニ本人にあえなく却下された。
トリノはイタリアのバロック様式の建物が立ち並ぶ碁盤の目の街で、ローマ通りは下の写真にある通りで一番奥の建物が王宮になっている。今からすれば「ローマ帝国風」などに化けなくて良かった・・・。
ソットサスはトリノ工科大学で建築を学ぶのだが、彼はそれまでの伝統的様式の建物に嫌気がさしていた。石や煉瓦で壁をつくって穴をあけたような建物には飽き飽きしていたのだ。下の写真はミラノにある建物だが、確かに窓を「穴」と呼びたくなったのもわかる。
一方、ムッソリーニがいうところの大げさな建物にソットサスが賛同していたわけでもない。
とにかく、新しい建築様式への強い欲求は父親ゆずりであったことが、このエピソードを通じてもわかる。冒頭で紹介したメンフィスは新しいデザイン表現言語を探し求めたものだったが、そこに至るプロセスは長かったのである。
(メンフィスの家具に使われている熱硬化性樹脂をつかった表層材は、ピエモンテ州にあるアベット・ラミナーティ社によるものだ。同社の資料をみると、1964年、ソットサスとジョエ・コロンボが同社を訪問しているとの記録が確認できる。1957年にポルトロノーヴァのアートディレクターとなったソットサスは、1966年、表層材を使った「ホテル・カリフォルニア」というキャビネットを発表している。因みにイーグルスのアルバム「ホテルカリフォルニア」は1977年にリリース)。
1950-1960年代、イタリアの正統派デザインが高評価を獲得していく道筋に並行して、「いや、こうじゃない」と考え挑戦し続けた人間の1人として、ソットサスの存在が「裏のヒストリー」のアリバイを証言している。
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