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民主主義の加害者たち

民主主義の支配-被支配の関係に加害者-被害者の二項関係を代入して現代社会を考えてみた。

加害者-被害者の二項関係

先に断っておくと、以下では「加害者」とか「被害者」は概念的な意味合いで使っているので、この場合の二項関係というのは、具体的に犯罪とかを犯す人とその被害者、というよりは(そういった意味も全く関係ないわけではないけど)、ある行為の行為者とその行為によって何かを被る被行為者の関係として捉えてほしい。

たとえば、思想家の東浩紀は親子関係を加害者被害者の関係に置き換えて、親の加害性について論じたりしている。つまり、親の子作りという行為に対して、子どもは被行為者として生まれる。

そういう加害者被害者の関係を、支配-被支配の関係に代入するとどうなるのか。

独裁体制の国家を考えるとわかりやすい。つまり、独裁者が統治し、それに従う市民という関係になるから、独裁者が加害者、市民が被害者になる。

こういう具合で考えると、民主主義の主権者は市民であり、市民の選挙によって代表を決めるという点では市民が加害者になり、代表たる政治家は被害者になる。

ただし、今の社会ではこの加害-被害の関係がうまいこと成立していない。なぜか。

誰もが被害者でいようとする

いうまでもないんだけど、民主主義云々以前の一般的な話として、おそらく大多数の人は加害者であるよりも被害者でいようとする。

むろん、人は加害者であることも被害者であることもあるから、どちらか一方にしかなれないわけではない。

親子関係に引きつければ明らかだけど、人は親になったとき(親というのは生物学上な親に限らず)、同時に誰かの子でもあるというように、人は加害者にもなれば被害者にもなることがあり、どちらだけということはない。

それで、何で人は被害者でいようとするのか。それは単純に被害者でいる方が優位に立てるからだろうと思う。

被害者が優位に立てるというのは、その加害によって責任が発生するからであり、つまり被害者は加害責任を追及することで加害者より絶対的に優位に立つことができるということだ。

一方、この被害者優位の関係は容易に加害にも利用されることがあり、たとえば侵略戦争の多くが「防衛」を口実にしていることからもよくわかると思う。

誰も加害責任を負いたくないし、そのためには被害者の立場まで利用されてしまう。

加害者不在の民主主義

民主主義というのは、しかし、おそらく市民個人がその加害責任を引き受けるところから出発する必要がある。

なんだけど、結局のところ加害責任を負いたくないというのは、例えば選挙で示される投票率の低さからも明らかにわかる。投票率ってのは、その意味では加害責任を負おうとしない市民の割合を示してもいるともいえる。

一方で興味深いのは、政治に対して意識を向けるきっかけになるのが市民個人の被害者意識による場合があるということだ。

例を挙げれば、都内某区で近所に高層マンションが建って日照権が阻害されたことがきっかけになって市民活動が立ち上がったということがあった(こういう例はいくらでもある)んだけど、それは明らかに日照権という権利を阻害された被害者意識が地域社会へ加害者的に参画する動機になっている。

つまり、一見するとこの被害者意識が反転して加害責任を引き受けることにつながっていく、というのが現代社会のありようで、いいかえれば加害-被害関係が反転することでようやく市民が加害者の立場に立つことになるようにみえる。

逆に言えば、特に不自由なく暮らしていられれば、政治に興味なんてそうそうわかない。政治は面倒臭い。

そういう意味で、不自由なことがない、あるいはそれが自覚されない多くの個人は民主主義社会において加害責任を破棄しており、無数の加害者が不在の民主主義が続くことになる。

しかし、加害者が不在なのは、単に政治が面倒くさいからというだけではない。

あたかも転倒した支配-被支配関係

加害者の不在について、支配-被支配の関係を改めてみておくとわかりやすい。

今の政治をみていると、支配-被支配の関係が転倒しているようにみえる。つまり、選挙された被害者である政治家が、市民を統制する加害者になっているのではないか。

そうだとしたら、市民の代表である政治家が国家を私物化しているようで、民主主義が機能不全に陥っているといわざるをえない。

しかしその実は、そのように見えているだけで、政治家が代表する加害者たる市民が極端に限定されているというのが正しそうだ。どういうことか。

いまやたいていの場合は資金的にも票数的にも力のある業界団体なんかは、それを余すことなくに発揮して選挙で政治家を勝たせることができて、選挙に勝った政治家はその業界に便宜を図る、という加害者被害者の関係が存在する。

一方で、その肩入れのツケを払うのは市民全体であり、業界に関わらない市民は不自由を被ることになるというのが実態だ。

でも、その不自由ってのも多くの人には感じられない程度で、あるいは一部の人に多くしわ寄せがいったりするんだろう。

それだから、たとえばその不自由に対して一部の市民が反対をしたとしても、それが業界団体の力を上回るものでない限り、たいていは無視されることになる。

こういう状況が加速することで、一部の市民への抑圧が強化され、政治家と業界の支配力が増していくことになる。

政治家があたかも市民を支配しているようにみえても、その実はしっかり業界団体や有力企業という力のある市民にしっかり支配されている。

すると、さっき加害者の責任破棄について少しふれたけど、厳密には加害者は責任を破棄しているのではなくて、むしろ加害責任に気づいていない、あるいは気づかないふりをしているという方が正確かもしれない。

市民は実際のところ被害者意識を反転して加害責任を引き受けるのではない。そうではなくて、被害者意識を得ることで市民=加害者である自分が被害者の立場にいることに気づくのであり、それは要すれば、自分が市民=加害者であることを自覚するということだ。

しかしながら実際には、この自覚を得る機会が徹底して隠されているから、依然として圧倒的多数の加害者は徹底してそのことに無自覚で、被害者のふりばかりをしている。

まさにこの状況を作り出したのがポピュリズムだ。

ポピュリズムの時代

ポピュリズムに共通しているのは、市民に強力に被害者意識を植え付けるということだ。

たとえば、ドナルド・トランプにしても小池百合子にしても山本太郎にしても、各々異なる仕方で「あなた達は被害者だ!」と主張することによって支持を得ている。

そしていずれも、被害者意識を掻き立てることで共感を力に変えようともくろみ、その結果として市民は加害者としての自覚から遠ざけられている。

そして、その被害者意識にとどまり続けることは、いうまでもなく、加害責任を引き受けることとはまったく異質なものだ。

民主主義は加害責任を引き受けることから出発する必要がある、とさっき書いたけど、そうであれば、被害者感情を煽り共感を沸き立たせることで市民を加害責任から遠ざけるポピュリズムの時代に、民主主義が機能するわけがない。

日本はいままさにそういう只中にいるということについて、人々はどれほど関心を向けるだろうか。

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