見出し画像

過去作読み返したら「良いこと」も言ってたけど「物申したくもなった」

 これは過去に私が書いた記事(もう一年前になるのか)です。

 読み返して秀逸だと思った部分は以下の文面である。

 まず最初に、虐待を受けたり貧困で苦労したりといった「支援が必要な家庭」ではなかったことだけはお伝えしたい。
 近年は“毒親”、“アダルトチルドレン”など様々な言葉が飛び交うように成りましたが、私の家庭はそういった類のものだと思います。ここでは敢えてそうした枠組みを用いず、「私が辛かったのだ」という、私自身の感情をもとにお話を進めていきます。
 そうした枠組みに入らなければ弱音を吐くことが許されない…と思ってしまう方もいると思うので(私自身がそうだった)。私の生きづらい性格を形成した家庭環境と向き合った話|蒼桜 #note

 最初の入り口はここではなかっただろうか。親を毒親だなんて…、虐待だなんて…、もっと酷いことをする人もいるのに…。そんな自己嫌悪から始まるのだ。
 でも毒親や虐待なんて強い言葉がなくても、あなたが受けた傷はちゃんと受け止めてくれる人がいる。なんなら「それは虐待に決まってる!」って鼻息荒く主張して宥めることすら起きてしまうレベル。
 きっと今までの家庭環境が普通だと思ってたからこその“親の擁護”なんでしょうね。親は無条件に子どもを愛さないけど、子どもは無条件に親を愛すんです。親を好きでいるために世の中の全てを歪ませるんです。そこが、のちのちその子の生きづらさになるんです。

 まぁそこでこの問題にもぶち当たってしまいますよね。「起こってしまった事実は変わらない」ってやつ。相手が反省したことは認めるが、それと許すかどうかは別の問題。しかも親子関係の修復は私が解決すべき問題ではなく、親が頑張るべきことではないか。そうやって、丸投げしようとしたんですよ。しようとしただけでしたね。

 どうして家族の中で強固にニューロンをつなげられて、一句一動機嫌を伺い「私が対処します(私が原因ならむしろすぐ解決する!)」となってしまうのは不思議でならない。
 ちなみに自責の念が強いのは責任感もそうだけど、他人が原因のって大体解決しないじゃないですか。じゃあコントロール可能な自分の管轄内に負いて多少無理した方がいい時ってありますよね。だって他人は変わらないし。変わるなら自分なんだし。他人に期待はしません。親にも祖父母にも。

 それを今になって「自責しすぎ」「もっとアホなやつでも子どもは作ってるし」「他人のせいにしないってことは自分のせいにしてるってことじゃん」とかとかとか、パッと言い返せないことばかり!!!!!

 とりあえず、「少しずつ他人を信用できるようになる」「毒親かなーのレベルだけど尾を引いてる価値感はやばすぎて支障をきたす」は充分治療対象になると考えている素人です😦

 あまりに鵜呑みにせずに、一患者として感じたことと受け取ってください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?