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終戦記念日に:誰がどうやって伝えていくのか

今日は終戦記念日です。
終戦の日は1945年8月15日、77年前です。

決して忘れてはいけないという自戒を込めて、
ある美術館の紹介をしたいと思います。

丸木美術館

丸木位里、俊夫妻の私設美術館です。

場所はちょっと不便なところなのですが。
埼玉県東松山市、東武東上線森林公園駅より約3.5キロです。


丸木位里・丸木俊夫妻とは

丸木位里(まるき・いり 1901–1995)
1901年6月20日に広島の太田川の上流の農家に生まれた。戦前には前衛的な美術団体である歴程美術協会や美術文化協会に加わり、抽象やシュルレ アリスム(超現実主義)を取り入れた独自の水墨画を発表して高い評価を受けた。
丸木俊(まるき・とし 1912–2000)旧姓:赤松俊子
1912年2月11日に北海道秩父別の善性寺に生まれた。女子美術専門学校(現・女子美術大学)で油絵を学び、その後、モスクワ、ミクロネシアに滞在。 油絵やスケッチを多数描き、二科展に入選した。
すぐれた絵本作家としても知られ、『ひろしまのピカ』、『つつじのむすめ』などの絵本は今も多くの人に読み継がれている。

1941年に二人は結婚。
1945年に広島に原爆が落とされた時、数日後にかけつけ、その様子を目撃した。
やがて夫婦共同制作で《原爆の図》に取り組み
30年以上の歳月をかけて15部の連作を完成。
他に、《南京大虐殺の図》、《アウシュビッツの図》、《水俣の図》、《沖縄戦の図》など 社会的主題の夫婦共同制作を発表している。

その作品の大きさに圧倒されます。
横7.2メートル×縦1.8メートルの8枚の屏風。
画面いっぱいに書かれたたくさんの人、人
そこには、二人が見た光景をそのまま、
「絶対にこの光景を伝えるんだ」という強い意志が伝わってきます。
写真よりも何よりも、強く私たちに語りかけてきます。

原爆の図


第一部 幽霊
第二部 火

丸木美術館では《原爆の図》1部から14部を常設展示しています。
(第15部〈長崎〉は長崎原爆資料館が所蔵しています。)

図録にはこのような一節があります。

17歳の娘さんには17年の生涯があった。3つの子には3年の命があった。
絵の中にはデッサンも合わせて900人程の人間像を描きました。たくさん描いたものだと思いました。けれど広島でなくなった人々は14万人なのです。広島の人々の冥福を祈り、再び繰り返すな、と描き続けるならば、一生かかっても描きつくすことの出来ない数であったと気がつきました。


「南京大虐殺の図」「アウシュビッツの図」など


南京大虐殺の図
アウシュビッツの図

ここに描かれているのはすべて、人間が人間に対して行った暴力の様です。

一貫して戦争や公害問題など、
人間がもたらすあらゆる惨禍を描き続けました。

以前こちらに書きました。
戦争も、時間がたてば忘れるのもやむなし、でしょうか?

強烈な意志と、手段を持つ一部の人にしか、
歴史を伝えていくことは出来ないのかもしれません。
時間がたち色褪せていくことを止めてくれる
このような作品の存在は貴重です。

絶対に忘れてはいけないことがある。
そう私たちに、教えてくれます。

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