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【小説】海のピアノ

松下洸平さんの『あなた』のPVが大好きで、美しい海と、光と、ピアノを弾く姿から想像しました。
私が昇華したかった想いも重ねつつ。曲とは関係のない架空の物語です。

幼い頃僕は、母が仕事の間(つまり一日の大半)を、祖母の家で過ごした。海がすぐそばにあって、ベランダに出ると潮の香りがした。そこから、外の景色をぼうっと眺めるのが好きだった。絶え間なく寄せては返す波と、どこまでも続く水平線。あの波に乗って、空と海の境目へ行ってみたいと思った。

ベランダにいると必ず祖母が隣に来て、手を繋ぎ、色々な話をしてくれた。天気、自然、月や太陽のこと、海の向こうの国や、そこで生きる人々のこと。世界は僕の知らないもので溢れ、とてつもなく広く大きかった。際限ない景色の中、祖母の優しい温もりを感じながら未知の世界を想像していると、僕の心は不思議と穏やかに凪いで、孤独も不安も嫌なことも何もかも忘れられた。

夕方になると、祖母は台所に立ち夕飯の仕度を始める。その背中を横目に、僕はこっそり奥の部屋に忍び込む。そこには、小さいが立派なグランドピアノがあった。
閉ざされた扉をそっと開けると、薄く差し込む夕陽に、舞い上がる埃が星屑のように煌めく。淡くぼんやりと霞んだ夢の中のような空間で、ピアノだけがぽつんと、確かに、じっと、息を潜めている。
深い赤や青や紫の混じった複雑な模様の絨毯が、足の裏をざらりと撫で、入ってはいけない場所に踏み込んでしまったような背徳感に、胸が高鳴る。
そっとピアノの蓋を開け、88鍵の美しい白と黒の配列を、一つ一つ、人差し指で撫でるように、音を出さずに辿っていく。指先から伝わる感触は、ひんやりと冷たく堅く、でもどこかあたたかで柔らかな体温をもって、僕の心を震わせた。
音は鳴らさず、誰にも知られず、また静かに蓋を閉める。僕とピアノ。二人(一人と一台)だけの秘密だった。

「今日のごはんはなあに?」
「お赤飯だよ、翔ちゃんの好きな、うんと甘いの。」
祖母の作る赤飯は、食紅で色をつけた淡いピンクで、大きな甘納豆がたくさん入っている。祖母はそれを、特に何の祝い事のない日にも時々作った。明るくて甘くて優しい幸せな味がして、僕の大好物だった。

いつものように、夕飯を作る祖母の目を盗んで、僕は秘密の相棒の部屋へ行き、鍵盤をそっと撫でる。なぜだかその日は、どうしても音が聴いてみたい衝動に駆られ、真ん中の白鍵に、おそるおそる力を込めた。まるく、湿った、明るく甘く優しい音が響く。僕は鍵盤に手を置いたまま、その余韻に酔いしれ、立ち尽くしてしまった。

気づくと僕の手に、骨張って皺の刻まれた祖母の大きな手が重なる。はっとして咄嗟に、ごめんなさい、と言おうとした僕の頭をそっと撫でると、祖母は優しくゆっくりと言った。
「これはね、おじいちゃんのピアノなんだよ。」
「僕の、おじいちゃん…?」
祖父は僕が生まれる少し前に他界していた。僕が秘密を共有していたのは、会ったことのない祖父だったのか。
「音楽が好きで、優しい人だった。もう手が思うように動かせなくなっていたんだけど、どうしてもピアノが欲しいと言ってね。」
始めて聞く祖父の話。懐かしそうな、愛おしそうな、たまらなく寂しそうな祖母の顔を、僕は初めて見た。
「おばあちゃんは、ピアノ弾けるの?」
「練習したんだけど、なかなか上手くいかないねえ。」
祖母はふんわり笑いながら、一音一音、ゆっくりと鍵盤に触れる。
「あ、きらきら星!おばあちゃん上手!」
「翔ちゃんも、弾いてごらん。」
遠くで聴こえる波の音と、ピアノの音色に、祖父と祖母の深い愛が重なり、空と海のように美しく溶け合ってどこまでも広がっていく。
その日以来僕は毎日、何時間も飽きもせず、ひたすらこのピアノを弾いた。楽譜は読めないし完全な自己流だが、耳だけを頼りに好きな曲を再現して弾いてみたり、自分で曲を作ることもあった。祖母はそれを、いつも穏やかな笑顔で「上手だねえ、翔ちゃんはすごいねえ」と聴いてくれた。中学生になり、高校生になり、毎日祖母の家で過ごすことはなくなっても、僕は時間の許す限り、ここでピアノを弾き、祖母の赤飯を食べ、ベランダから海を見た。



葬儀を終え、ばたばたと人の出入りする居間を抜けて、僕は一人、あの部屋に足を踏み入れる。ざらり。きらきら。
そっとピアノの蓋を開け、いつかのように、鍵盤を一つ一つ指でなぞる。つめたい。急に喪失感に襲われ、涙が止めどなく流れる。あぁ祖母はもう祖父に会えただろうか。
その場で溢れてきた想いを、メロディに乗せて奏でる。上手だねえ、すごいねえ。好きで好きで好きで好きで、大好きだった祖母。広い世界を、未知の宇宙を、あたたかな愛を、教えてくれた、大切な人。

ベランダに出る。波の音、潮の香り。
僕は空を見上げた。これからはどこにいても、いつもこの空で繋がっていられる。終わりのない、どこまでも広がる薄青い空と海の境目から、あたたかな淡いピンク色の朝陽が、昇ろうとしていた。

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