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【小説】あの日の椿

赤いちゃんちゃんこ。なんだかぼんやりとした、象徴のような、架空のものみたいに思っていたそれを、自ら着る日が本当に来るなんて。気恥ずかしいけれど、この上なく幸せなことだ。
あっという間に歳をとってしまった。
私の周りを元気に走り回る孫達の姿を見ながら、走馬灯のように、今までの人生が私の中を駆け巡り始めた。


結婚したのは22の時だ。
女に学問は必要ない、などと言われ、高校を出てすぐ父の勤めていた銀行の支店で働いた。
そして、ある日父が連れてきた「A大学出の公務員」だという人と付き合うことになり、程なく夫婦になり、そして私が24のときに娘が産まれた。その娘が今や36。

ちょうど私が今の娘と同じ年の頃だった。
……あの人と再会したのは。


当時娘は12才、息子は8才だった。
夫は地方に単身赴任をしていて、私は一人で家事育児に追われていた。今振り返れば、なぜあんなに余裕がなかったのだろうと思う。仕事はしていなかったし、子ども達が学校に行っている間は自由だったはずだ。だけど、少しも気の休まる暇はなく、あれもこれも完璧にやらなければと、何かに追われるようにいつも逃げ場がなく、苦しかった。

そんな時、高校のクラス会の知らせが届いた。ちょうど実家の母が来ていて、何気なくその葉書を見せたのだった。
「二人とも預かるから行ってきたら?土曜日だし、そのまま泊まっていけばいいよ、私達も嬉しいわ」
夫は不在だし、行けないものと端から諦めていたところに、母の言葉。
「たまには、一人でゆっくりしておいで?」

その頃、娘となんとなくすれ違ってばかりだった。思春期なのか反抗期なのか。私もつい娘には厳しくなってしまい、冷たい態度で接してしまう。一緒にいればいるほど溝が深まっていく気がして、埋めようとすればするほど、そこに嵌まっていく。
少し離れるのも、いいかもしれないと思った。息子も、おじいちゃんおばあちゃんが大好きだから、きっと喜ぶだろう。
学校から帰ってきた子ども達に話すと、二人とも歓声を上げ、早速カレンダーに丸を付けている。なんだか少し寂しい気もしたが、その日を思うだけで私の心も浮き立った。

二人は張り切って荷物をまとめ、迎えに来た父の車に乗り込んだ。
「よろしくね、何かあったらすぐ連絡してね」
当時、普及し始めたばかりだった携帯電話を出し、番号をメモして渡す。
「大丈夫、明日の夕方にまた送ってくるから」
「いってきまーす!ばいばーい!」
ひとりになる。とてつもない自由を感じた。

こういうときに着ていく服を持ち合わせておらず、何を着たら良いかわからない。紺色の、さらりとした生地の足首まであるワンピースを選ぶ。ドレッサーの奥に眠っていたパールのイヤリングを付けてみる、が、なんだか似合わない気がして、結局また奥にしまう。小さな黒のハンドバッグを肩にかけ、少しだけ踵の高い靴を履いて、家を出た。

18年ぶりに会う旧友たち。姿形は変われど、話してみれば何も変わらない。一瞬で当時に戻っていく。
一次会を終え、店をかえて二次会をすることになった。残ったのは10名ほどだっただろうか。その中に、彼はいた。
「吉田さん、でしょ?あ、覚えてるかな…」
旧姓で呼ばれるのが、くすぐったかった。
「井上くん。覚えてるよ、陸上やってた。お久しぶりです」
「一次会、席遠かったから。よかった、話せて」
実はずっと、私も目で追っていた。
高校の頃から、18年前から、ずっと。

「井上くんは今なにしてるの、仕事」
「今はね、幼稚園で絵、教えたりしてる」
「へえ!そうなんだ、絵のイメージなかったなあ」
「ずっと好きは好きだったんだけど、急に閃いたの。あぁ!絵が好きだ!描きたいー!って」
当時と変わらない、屈託ない笑顔。陸上部で、いつも走っているイメージだった。地元の大学に進学したことは聞いていたが、その後は会う機会もなく、私も同級生たちと頻繁に連絡をとっていたわけではないので、噂も耳に入ってこなかった。
「吉田さんは?…あ、吉田さん、じゃないのか」
私の左手の薬指にはめられた指輪を見ながら、言う。
「いいよ吉田さんで。22で結婚したの、仕事もやめて。上の娘はもう6年生」
「そっかーーうん、イメージできる、めちゃくちゃきちんとした優しいお母さん」
「もう全然。最近、娘にも嫌われてるみたい」
「今日は旦那さんが?」
「うち、単身赴任なの。今日は子ども達、実家に泊まってくるって」
「そっか。よかった。あ、おかわりいる?」
「久しぶりに飲んだから…弱くなったなあ。でも、じゃあせっかくだし」
私はジンライムを頼み、彼も同じものを、と言い、二人で改めて、グラスを合わせた。

「俺も、結婚したんだ、25のとき。子どもも、一人」
だいぶ酔ってきた頃、彼がそう切り出した。
「…でも結局上手くいかなくて。ふわっふわしてたからね、急に絵描きになるーとか言って。ようやく地に足付いたかなって頃には、もう遅くて」
私の知らなかった、彼の18年間。
「息子、9才なの。時々会うんだけど、だんだん大人になってくなぁって、最近。子どもの成長ってすごいね?娘さん12才だったらもう、めちゃくちゃしっかりしてるんじゃない?」
「そうだねえ…最近ますます関わり方難しいなあって…どうしてあげたらいいかわからなくて。すっごく大人だなって思うときもあれば、実は全然子どもだったりするし」
「難しいねえ。はーー難しい!」
「ほんと!あーー!難しい!」
「飲むか、飲もう飲もう、今日はいんじゃない?」
何の答えも出ない、でも気持ちの良い会話。
こんな時間はとても久しぶりで、心から楽しかった。

二次会もおひらきになり、各々帰っていく。
「井上くん、家どの辺?」
「あ、近いよ、歩いて帰れる。吉田さんは?」
「うちはここからだとバスなんだけど…もう終わっちゃったな…タクシーかな」
「………来る?」
「?」
「今日だけ、なんでしょ、ひとり」
ひとり。でも、本当は一人じゃない。子ども達も、夫も、私にはいるのだ。
だけど、独り、だと思った。ずっと孤独で、寂しかった。
私は黙って頷き、彼についていった。

「どぞ。あーごめん今片付ける」
狭いワンルームのマンション。ベッドと、本棚と、ラジカセ。木製の立派な机。そして、たくさんの画材と、紙と、彼の描いた絵があった。
「これ……すてきだね…」
細かい描写で描かれた、街と、空と、鳥の絵。
「それね、あぁ絵が好きだー!って、思ったときの。それ描いたときに、思ったんだ、もっと絵が描きたいって」
繊細で大胆で、優しくて明るくて。彼そのものみたいな絵に、私はしばらく心を奪われていた。

……急に後ろから抱きしめられる。振り返ろうとしたところに、彼の唇が重なる。それはとても自然で、もはや必然だった。18年前から、こうなることが決まっていたかのように。私は、心のままに彼を受け入れた。
ずっと心のどこかにいた、ずっと忘れられなかった人の腕の中に、無防備な姿でいる私。あの頃とは違う、すっかり歳をとってしまったこんな姿で。子ども達の顔が浮かぶ。急に恐ろしく後ろめたく恥ずかしく、逃げ出したくなる。
そんな私を見透かしたかのように、
「綺麗だよ、あの頃も可愛かったけど、今の方がずっと」
彼はそう言って私の頭に手を回し、綺麗な指で優しく撫でた髪をそっと耳にかける。
「…ずるいなぁ……」
ひとりって、寂しくて、でも自由で強くて、いいなぁ、と思う。ひとりならよかったのに。

「ちょっと、待ってて」
彼はベッドから机に手を伸ばし、そこにあった小さな紙と鉛筆を手に取る。そして私の隣に横たわったまま、何かを描き始めた。
私はそれをうっとりと眺める。楽しそうで綺麗で優しい横顔。何て美しいのだろうと思った。

「はいっ、できた」
それは、花の絵だった。椿の花。
椿つばきさん。綺麗な名前だ」
「…もらっていいの…」
「もちろん。もらってくれたら嬉しい」
私は、椿という名前が好きではなかった。華やかさのない私には似合わないし、椿は花ごと落ちる、などともよく言われ、なんとなく忌まれている気もした。
「俺、好きなんだよねー、椿。散らないんだよ、ずっと綺麗に花びら付けたまま、美しい姿のまま。なんか、カッコいい、強がってる感じが、愛おしい」
「……そんなこと言う人、初めて」
「ちゃんと、ひとりだよ。椿さんは、ひとりで、ちゃんと咲いてる。それに、ひとりじゃないから」
「…なにそれ、どっちなの…」
そう言いながら涙が溢れる。私という存在を、ちゃんとひとりの人間として、肯定してくれる。妻でも、母でもない、ひとりの、私。そうやって、見ていてくれる人がいる。ひとりじゃないんだ、と思った。

私はその椿の絵を、丁寧にたたんで、財布の中に大事に仕舞った。
そして、真っ白な眩しい朝日が昇る頃、彼の部屋をあとにした。母としての私をいつも見つめてくれる、愛しい子ども達の元へ。


それ以来、彼に会うことはなかった。
彼も今頃、赤いちゃんちゃんこを着て、誰かと一緒にいるのだろうか。笑っているだろうか。
私の財布の中には今も、ひっそりと、椿が咲いている。

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