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無常感との戦い

「明日ありと思う心の仇桜
夜半に嵐の吹かぬものかは」

人生何が起こるかわからない。
明日も咲いていると安心していると、夜の嵐で桜が散ってしまうかもしれない。
桜を例に、人生や世の中の無常感を現している。いつの世もそういう無常でありながらも
しかし、どこか連続性のある何かによって人間は心を磨いてきたのかもしれない。

現代的な無常感の始まりは常に、莫大に消費されていく情報によりもたらされる。
あたかも、桜が散るようにさめざめと。
この情報の消費は心の栄養を伴わない。
無常感を与え、人々に感性の練磨を促す桜の散り際とは大違いである。
無論、連続性など皆無である。

「根に帰り古巣を急ぐ花鳥の
同じ道にや春もいくらん」

この歌を読んだ人は春の美しい光景を現していると、漠然とそういう印象を持つだろう。
これが親子の永遠の別れを経験した世阿弥の手紙に引用された歌だと知ったらどうだろうか。
世阿弥は才覚ある息子を失い、鳥や花のように声なきものに自分を投影していたのかもしれない。
死ななければどうなっていたかと。
自分と同じ道を歩んでくれていたはずだと。
花鳥のように何も感じずにいられればと。

いつの時代も死は無常である。
無常でなかった死などないのだ。

#コラム #エッセイ #言葉 #死生観 #無常感

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