短編「同人誌、合同批評サイト」(10枚)

 こんオンライン同人誌合同批評サイトにおける、蒼ヰ瀬名さん提出作品「なめる」のぼくぎっちょの批評を、読書感想に近い形だが述べさせていただく。

⬛︎見直しや推敲の際の注意点︎⬛

 蒼ヰさんのこの作品を一読したかぎりでは送り仮名の単純な打ちミスと思われる部分は見当たらなかった。応募原稿(蒼ヰさんが今後するのであれば)などではそうした誤字のような単純なことが書き手の資質の一端にカウントされる。念入りに点検が必要になる。また、気になる言葉や、歴史的用語、作品に設定されている舞台の小道具の特質なども用字用語や関連事典で確認しておかなければならない(創作の初心者ほどこの作業をおこたりがち)。もし蒼ヰさんが「なめる」をどこかへ応募するならば以下の項をお読みください。

⬛応募原稿というもの⬛

 プロの認知をうけていない書き手の小説作品の発表はいわゆる紀要や同人雑誌をべつにすれば、通例なんらかの文学賞への応募が一般的なルートとなる。で、そうした各種文学賞における採用不採用なり当落は当然ながら相対的な評価判断になる。つまりたまたま他にもっと評価の高い応募作品があれば不採用になる。文学賞というものの運不運というのはほとんどこの一点のみ。また応募者の多いある程度の名のとおった新人賞では公表されている審査員が作品を評価・判定するのは最終選考に残った作品だけだ。つまりその種の文学賞ではまず賞を主催する当該出版社や団体のスタッフによる下読みがある。だから誤字脱字などにも細心の配慮が必要。そうした細かいところも下読み段階でフルイにかけられる要素のひとつになっている。

⬛ぎっちょの「なめる」批評⬛

 それでは本作のぼくぎっちょなりの比評をさせていただく。(なんどもいいましたがぼくは他人の作品を批評するような身分ではありません。ですからどこまでいっても素人の真似ごとです。ご了承を)

⬛タイトルについて⬛

「タイトル買い」という言葉があるようにどんな分野でもタイトルというのは案外に重要だ。まず「なめる」というタイトルは、たしかに作者の描いた物語の内容を凝縮・象徴しているものとなっているようだ。が同時にまた一見このタイトルを一瞥しただけではこの作品の内容がピンとこない。そんなボヤけたタイトルになっているようにも感じる。むろん、だからといってよろしくないということではなく逆にいえばむしろそこに読者の未知への物語の想像や期待感を抱かせることもある。読者は読み進めるうちにタイトルがこの物語の内容やテーマを暗示したものになっていることがわかってくる。

 いずれにしてもタイトルのポイントは作者が作品内容の全体を熟慮のうえでこのタイトルにしてそのことにたしかな自信と手応えを感じているかどうか。つまりこうした点を了解のうえで「なめる」にしたとのことであればこれはこれでアリ。だ。

⬛文章について⬛

 内容はSFチックで幻想的な世界の割に作品の文体のほうは総じて「だった」調の平明な短文で構成されておりつっかかるところないタイヘン読みやすい文章。基本的にはほとんど問題ない(素人の書き手のぼくがいうのはナンだが)。純文学の書き手のぼくから強いていわせてもらえるならば秀逸な比喩、こった言葉遣い、読者の目を留める異化がポンっとひとつあると「ブンガクをよんでいるな」と読者が印象をうける(ペダンチックにならない程度にだが)とおもう。そのように小説創作においてひとつ重要なのは小説作品というのは、年齢や性別、職業をとわずじつに幅広い層の読者が手にとるものだということをつねに念頭においておかなければならないということ。すなわち、特殊用語や固有名詞や用語をつかうにしてもそれなら一般読者にピンとくるような印象をあたえるように工夫する。そのような作業はだいじなことになる。

⬛因みに下読みで「そして」は一点減点⬛

 名文家として知られるプロの作家は基本的に「そして」はつかわない。文章を連結させるときは奥行きのある別の表現をつかう。というのが下読み界の通例だそうだ。が、これにはぎっちょの異論がある。写メを添付したように辻村登の芥川賞作品「村の名前」には「そして」は非常に効果的につかわれている。逆に乃南アサの女性刑事のサスペンス小説の金字塔「凍える牙」は「そして」の安売りオンパレード(数えてないが百以上)。エンタメ系長編小説「凍える牙」はわからないが純文学では「そして」は効果的であればいいとぎっちょは思う。ちなみに日本はおろか世界の名文家の川端康成の中編小説「眠れる美女」は「そして」が三十三、つかわれている。

⬛全体の印象⬛

 最初におことわりしておきたい。再三いっているがぼくぎっちょはみなさんとおなじ素人の書き手で批評家ではない。それもエンタメやSFでなく「純文学」の書き手です。ですから的外れなことをいう可能性が非常に高い。ご了承願いたい。

 ではこの物語はどんなタイプの作品なのかといえば「純文学」にも「SF」にも「エンタメ」にも「幻想小説」にもよめ、大きな時代SF小説の冒頭の一部(これから色々な時代にループしていくよう)にもかんじられる。

⬛まとめ⬛

 最後に、この事例はこん作品のみのことでない。ぼくは蒼ヰ瀬名個人を責めているのでは決けっして、ない。

 こんオンライン合同評会の前に、筆者つまり蒼ヰ瀬名自身からみなに、メッセージが届いた。筆者は自分の作品に対して大きな意気込みを語った。要約すれば「この作品はぼくが二十五年前にかいた渾身の作品です」。まるで大手既成メディアや大手広告代理店などが書籍やテレビ番組や映画のコマーシャルを大々的にかますような一方的なメッセージだった。この当時のぼくの心の内を正直に暴露すれば、筆者である蒼ヰ瀬名の自己宣伝には嫌悪にちかい違和感をおぼえた。

 作品はかき終われば作者から完全に独立する。作者は自身の作品をだれにも発見されず黙々と独りで孤独にかきつづけたとて、しかも孤独な作業に生涯ずっとたえたとて、作品が必(かなら)ず日の目をみるとはかぎらない。「作者」と「作品」そこに実情は一切入らない。逆にいうと、だからこそブンガクの世界はおよそあらゆる芸術の創作領域で最も公平な分野だといえる。だから文芸コンテストや文藝賞の新人賞などで「なめるは二十五年ぶりにかいた渾身の一作です! 」となどいくら声高に叫んだとてなんらだれも一切考慮はしないということです。その点、例(たと)えばこの同人誌合評サイトに提出された作品が、小学生によって描かれた作品であろうが、蒼ヰさんの二十五年前の作品であろうが、先月退会した虎男ダリルさんが仕事の合間にあるいは晩酌ついでにチョイチョイっとかいた作品であろうが、それは同じ土俵の上で評価・判断されるべき作品だということ。その点で文芸作品はだれに対しても平等だということです。

 ここでどなたかが「小林多喜二」と「蟹工船」の関係をもちだすかもしれない。だがそれらは「既に世に発表された小説」と「既に世間に広く認知された小説家」という前提に立ってはじめて世間は「作家」と「作品」を関連づけて評価するのです。だからその存在をだれも知らない「蒼ヰ瀬名だか」の「なめるだかなんだか」の、現にいま地中に埋まったままの鉱物をだれがどのように評価できるでしょうか? ですからぼくの意見は、これ以上はひかえます。簡単ですがこれでぎっちょの「なめる」批評をおわりにします。

⬛提出画像資料の情報訂正⬛

 みなさんに送付した小説の資料の写メは辻村登「村の名前」ではありませんでした。小山田浩子「穴」でした。この場を借りてみなさまに深くお詫び申しあげます。

 ぼくはぎっちょの、素人同人誌合評サイトのログを何度もなんもよみかえし、録画しておいた映像をなんどもみかえした。

 あのライブチャットでぼくは顔を、ゆでたエビのようにまっ赤にさせて、ぎっちょを睨んでいた。殺意さえいだいた。けれど、いま録画をみかえすと、ぎっちょがまったく正しい。それがまた、ぼくの身にこたえた。

 あの同人誌小説合同批評会から半年が経った。

 小説家になろうと決心しかきつづけて八年になるぼくはあれから半年の間、文字どおり一文字もなにも書けなかった。一文字も書けないことは書き始めて初めてのことだった。

 ぼくは「なめる」をよみかえした。

 突如、イメージが、まるで間歇泉の、いやマグマの噴火のごとく闇の底から噴きあがってきて、頭のなかで何かがひっくり返った。

 主人公を「女」に変えたら… なめるのは男じゃない! そうだ、すべてが逆だったんだ! この世界は真逆だったんだ! ぼくが、ぼくの小説が間違っていたんじゃない、ぎっちょの批評が、世界のほうが、この現実のほうが間違ってるんだ! 他人の評価なんかクソ喰らえだ! このおれが真実を描いて現実世界を書き変えてやる! 

 おれは世界をすっかり書きはじめていた。


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