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3-13 エフェクチュエーション×プロティアン考

エフェクチュエーションもプロティアンも起点には「やりたいこと」という内発的動機づけがある。

これが自分にとってはかなり大きなハードルなんじゃないかと感じている。

恥を偲んで本当にやりたいことを突き詰めると「美味い物を食べて美味い酒が飲めて家族不安なくニコニコできてる」くらいで良くて、何か社会にインパクトを与えたいとか名を残したいとか新しいことを生み出したいとかそういうのがない。

あるのかもしれないが今のところ見つけられていない。


コーゼーションのやり方について思考のフレームが先に出来てきたのは、実は結構大勢の人が自発的な「やりたいこと」を定めるのが難しかったからじゃなかろうか?

「何某か情報を集めて調べてみると、どうやらどこかの誰かはこれを求めているらしい」というところを起点にすれば、自分の強い思いがなくとも物事は進められる。


「スティーブジョブズがいなくてもiPhoneはできたか?」という問いがひっかかっていたのは、そういうことだったのかも。


「これをやりたい」「これを作りたい」に勝る推進力はなく、その思いがあればゴリゴリと前に進んでいくし、進めていくうちに「何か」が生まれるし、「何か」が生まれれば達成感があるし、生まれたその「何か」はどこかの誰かにとって影響を与えるし、という循環になっていくのだろう。


じゃあ振り返って美味い物を食って飲んで楽しく暮らしたい自分の今の行動の動機づけは、将来の漠然とした不安が大きくて、これはいつかプツンと切れるとうっかり死んでしまいそうなので注意したい。


プロティアンの本の中にやりたいことが見つからない人は「身近な誰かに」をイメージするように書いてあって、それは1つの解かとも思う。

しかし、結局「家族に美味い物を食べさせたい」みたいなところに落ち着くと、それはそれでどうしたらいいのよ?ということになる。


そうするとドラッカーの「何者として覚えられたいか」に行き着いてきたりして、堂々巡りになるんだけれど、

とりあえず「仮置きのやりたいこと」、パーパスβ版を置いて動いてみようや、というプロティアンに立ち戻り、パーパスβ版に基づいて手中の鳥であるアイデンティティやらアダプダビリデイについて考えてみたりしたらいいんじゃないかしら。


というところに落ち着いたのですが、こういう理解で合ってますかね?

ご意見ご感想などいただいてゴニョゴニョお話できると嬉しいです。


自分の理解度が低いことが知られても、それは「許容可能な損失」だし
Facebookに書いたことをNoteに書いても別に損失にはならないので書いてみました。

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