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水の中の天女 (#シロクマ文芸部)

「詩と暮らすようなものなの。この子と暮らすということは」
私はひとりそう漏らすと、膝の上に乗せられた娘の頭を撫でた。冬が近いというのに、久々に縁側に腰を下ろすとこんなにも温かい。ここ数日、ガラス戸を締め切って過ごした日々が惜しまれる。
日差しの温かさに、いつしか眠りについてしまった娘は、猫のように丸まり、私の膝を枕にして小さな寝息をたてている。体を折りたたむとまだこんなにも小さいのかと、切ない思いで娘を見ていた。

最近は娘の成長に怯えることがある。
この子が社会の一員として暮らしていくために強いられる苦難を思うと、つい胸が苦しくなる。これまでだって、娘の成長を感じる度に同じことを思ってきた。その都度世間から差し伸べられた温もりは、決して悪いものではなかったはずなのに。
いつの間にか物思いにふけり、娘の頭を撫でる手が止まっていた。心地よいリズムを失ったからか、娘は目を開けてゆっくりと起き上がった。
「気持ちよさそうに寝てたね」
娘の乱れた髪を直してやりながら話しかける。
娘はぼうっとした顔で庭を見ている。
今朝集めておいた落ち葉が、少しずつ風に遊ばれ散らばっていた。
「あか……きいろ……りんご……おちば……」
娘が呟く。
「そうね。りんごは赤も黄色もあるものね。落ち葉はりんごと同じ色ね」
私は娘に言った。
娘は嬉しそうに私に笑顔を向ける。

風が吹いた。

寒くはない。暖かな風だ。
娘の頬を撫でる。日差しが当たるときらきらと輝く娘の産毛。金色に輝いている。まだ毛穴も見当たらない、美しい娘が私に微笑む。

「おかあさ……やさし……」

娘はそう言って私に抱きついた。
ふんわりした娘の体を、私も抱き寄せた。少し前まで骨ばっていたのに、大人の体になることを、自然と娘は受け入れている。私になんの許可もなく。
「お母さん、優しい?そうかなあ。でも、ありがとね。さあちゃんが優しいからだよ」

娘にはなるべく優しい言葉をかけたい。そう思っているのに、時々私を支配する悪魔は、私の優しい娘を傷つけてきた。そんな思いから、私を抱きしめてくれる娘に、私は100パーセントの力で抱きしめ返すことができない。

「ねえ、さあちゃん。明日ね、遠足があるんだって。行ってみる?お母さんもついていってあげるから……」
抱きついている娘を、少しずつ体から離して、娘の表情を見ながらゆっくりと言った。
娘ははっとした表情をしてから何度も頭をふった。
「そっか」
私はひっそりと心の中で息を吐いた。ため息ではない。長く、息を吐いただけ。
「じゃあさ、二人で水族館行こうか」
娘に明るい声で提案をする。
すると今度は、嬉しそうに首を縦にふった。
そして、娘は突然ごろんと仰向けに寝転んだ。
目を閉じて、両手両足をゆっくりと動かしている。
娘はときどき、私を残し空想の世界へ行ってしまう。
そんな娘を見ながら、私は今度は本当に長いため息を吐いた。
娘は腕を空に伸ばして、何かをつかもうとしているのか手を動かす。とても気持ちよさそうな表情をしている。
「きらきら……きらきら……」
娘は水槽の中の魚になったのだろう。たくさんの仲間の魚たちと、広い水槽の中を悠々と泳ぎ回る。上を見上げればきらきらと揺れる水面。その上には大きな機械があって、人工的に光や揺れを作っているとは知らず、気持ちよさそうに泳いでいる。
人工的でも、優しさがあればいい。
娘は、もしかしたらそんなことを思うのかもしれない。
優しさが人工的であるかどうかなんて関係ないよ。娘の声が聞こえた気がした。
娘がこの先、流暢に話す未来があるのだろうか。勝手に不安になって憂いている自分を罰したい。
娘の表情は明るかった。今の娘は、ただただ美しく、柔らかく手を動かす様はまるで天女のよう。
言葉のいらない世界で、自由に泳ぐ空想の中で。






[完]


#シロクマ文芸部

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