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私はこんな感じで小説を書いています。(アンサー記事#エッセイ)

誰からも求められていないようなことを書き綴るのが私のnoteの常ですが、noterの高橋征志さんから私の創作の仕方について興味を持っていただいたので書いてみます。
(青豆ごときが語るな!という批判は一切受け付けません。青い豆のくせに!とか)

高橋さんの記事を拝読しました。この記事の中で、高橋さんがおっしゃっていたのは、私(青豆)の創作スタイルというのは「書き始めは結末などを考えておらず、筆を走らせていって筆に結末を任せる感じ」というタイプになるのではないかと、分析してくださいました。正解です。
創作する物全てではないですが、これは良くおこる「現象」です。創作される多くの方にとっては、当然のように起こっていることかと思います。

ところで私は昨日、本を一冊買いました。吉本ばななさんの本です。
本当は、「小説の書き方」のような本をパラパラ眺めてみたいなと思って書店へ行ったのですが、それらしき本をめくったところで、全く意味不明。読む気も起こらず。早々に諦めました。
今まで読んできたプロ作家の小説に型があるのかどうかわかりませんが、昨日の時点で「書き方」のようなものを示唆した本に、私の体が拒否反応を示したので、その手の本を探すことは諦めました。そしてその陳列の並びで見つけたのが、吉本ばななさんの「小説家としての生き方100箇条」です。
吉本ばななさんの小説は大好きです。お名前も好きです。本を開いてみて一瞬で決まりました。読みたい!

そうして手に取った本に書かれていたことの中で、私が小説を書いてみるようになって「へ〜、こういう感覚になるものなんだ!」と感動していたことに近い内容が、吉本ばななさんの言葉で綴られていて感動していたところでした。

ここで高橋さんの記事の内容に戻ります。
高橋さんの記事では『第三の創作のやり方』として、逸話を元に説明されています。(第一、第二については該当記事をお読みください)

それはこういう逸話と共に思い浮かびました。

 どこで聞いた話か忘れましたが、ある高名な仏師が木を彫って仏像を作るとき、どのようにして仏像を作っているのかというと、「こういう仏像を彫ろう」とイメージして、そのイメージに従って彫るのではないのだと言います。そうではなくて「木の中に仏さまがいて、それを掘り起こしているだけだ」というのです。

高橋征志さん『創作の三つの形』より引用


この逸話に書かれているような感覚。
見切り発車のように創作をしている私も、初めて長編を書いた頃にこの感覚を体験していました。その時私は「ストーリーについて行くのが私」などと意味不明な表現で日記を投稿したと思います。

ここで吉本ばななさんの言葉をお借りするとこういった表現になります。

書くときは、すごく冷静。
数学とか物理とか、そういう感じで書いている。
だからこそ、自分が書いていると思わないようにしないと本当に難しい。
自分以外の偉大な何かの管になっているような感じです。

『小説家としての生き方100箇条』吉本ばなな

これを読んで、私は心のなかで首を激しく縦に振りました。

書くものが自分に対して発している小さな声をいつも謙虚に聴こう。
書いたのが『自分』だとはゆめゆめ思うな。
書かせてくれた何かに感謝を。

『小説家としての生き方100箇条』吉本ばなな

ここです。縦に振りすぎた頭が少しズレてしまって焦ったのは。
ではなくて。共感、と言ったらおこがましいですが、とにかくこの言葉には頭で数字の1を何度も書いてしまうのです。

私は高橋さんが創作の方法を「三つの形」としてわかりやすく説明してくださっていることを、何ら否定しません。他の方の創作の仕方を知りませんので。
今回は私(青豆)が小説を書く場合についての話ですので、結論としましては、「第一、第二、第三を全てとり入れて書いている」ということになります。
頭の中に画面があって、突然ドラマが始まるのをぼーっと見る。そして「なんか面白そう」と思ったらノートにメモし始めるとなんとなく終わりが見えたような、見えなかったような。そうして書き始めたら後を追うだけ。だけど最後の最後の着地だけは「共同作業にしようね?」とストーリーさんにお伺いを立てては裏切られたり、仲良く一緒にゴールテープを切ったり。そんな感じです。

高橋さんのようにうまく言語化出来ませんでしたが、それこそが私の「味」だと思っていただけたら幸いです。


記事というより、高橋さんへの手紙のようになってしまいました。




#エッセイ





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