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掌編小説 | わたしの石

 小さな船の冷たい床に寝転がり、空に浮かぶ男の人を見ていた。
 わたしは船に乗せている大きな石が、片方の足を潰してしまっていることも忘れて、スーツを着ているその人を目で追っていた。彼はサラリーマンなのかな、なんてのんきに思っていた。わたしの目に映るのは、青い空、白い雲、そしてサラリーマンだった。

    いつだったか、わたしはこの船に乗り込んだ。着の身着のまま、後先を考えずに、この小船に身を隠すようにして海へ出た。
    小船を漕いでいくためのオールはなく、あるのはわたしの頭くらいの大きさの石だった。
    石と小船と、わたし。
    わたしたちは素材も生き方も癒され方も違うだろうに、頼りなく手を繋ぎ荒波に運ばれたのだ。
    しかしあるとき目覚めると、石は数倍の大きさになり、わたしの片足を潰してしまった。
    それからのわたしは、来る日も来る日も冷たい床に寝そべり、空だけを見ている。そして今、空に浮かぶサラリーマンを見つけた。

 そのサラリーマンは、そこそこの技術を持ってして空を漂っているように見えた。
    空に浮くって、きっと楽じゃない。風が強く吹いたら落下することだってあるだろう。
空に浮かぶサラリーマンに比べれば、今のわたしは、ずっとずっと楽をしているのかもしれない。
    ふと、この小船はどのくらいの重さに耐えられるのだろうかと考える。この石が、今後もっともっと大きくなっていく可能性があった。万が一に備えて港が近くにあるといい。わたしと、わたしの大きな石を、こころよく迎えてくれる港だ。足の怪我を気遣ってもらう必要はない。

 わたしは体を起こした。船からは見渡す限りが海だった。石が足を潰しているから、自分で港を探すことができないわたしは、空に浮かぶサラリーマンに話しかけることにした。
 「お兄さん。おじさん。そこのサラリーマン」
    わたしにしてはかなり大きいと思える声で呼びかけた。
 「空を飛んでいるそこのあなた。わたしはあなたに話しかけています」
    彼は返事をしなかった。だけど、聞こえている可能性はある。
 「あなたに聞こえているという前提で話してみます。空にいるあなたから見える範囲に、港はありますか?」
    わたしが話しかけたので、なんとなく彼の動きが止まったように見えたけれど、それは彼のうしろに見える雲の形の変化でそう見えただけかもしれない。しばらくは待ったが、反応はなかった。
    少しずつ空の色が変わりつつある。わたし自身にはなんの変化もなく、ただこの小船の上で途方に暮れているだけだ。そう思うとなんだか悲しくなって、彼に声をかけるのをやめて少し眠ろうと思った。

 目を覚ますと、あたりは暗闇に包まれていた。そこに、空一面の星々だ。
    わたしは視力が良くないのに、こんなに星が見えるのは少しこわい、と思った。だいぶ体は冷えてきていた。それもそのはず。いつの間にかわたしの足元にはサラリーマンがいて、石と彼の重みで、船の底に穴があいたのだ。

 この船に、わたし以外の人間が乗ることは初めてだった。サラリーマンは、わたしの船に乗っているというのに、目が合っても挨拶もしない。挨拶もできない人がサラリーマンであり得たのだろうか。わたしは無言で居座るサラリーマンに話しかけた。
 「あなたはサラリーマンですか?イエス or ノー」
 「イエスでありノー」とサラリーマンは答えた。星あかりの中、目を凝らしてよく見ると、このサラリーマンは、下から見上げていたときよりも立派ではなかったし、堂々ともしていなかった。

 「あなたには、わたしの船が見えていたのですね」
    わたしがそう言うと、サラリーマンは頷いた。
 「明日もここにいますか」わたしは訊いた。
 「あなたは、どうですか?」
    サラリーマンに訊ねられて、わたしは自分の足元を見た。いつの間にかわたしの足の上にあった石はどかされていた。寝ていたから気がつかなかったのか、もうずいぶん前から、わたしは石の重みから解放されていたようだ。
 「あなたが石をどかしてくれたのですか」
 「そうですよ」
 「大変じゃなかったですか」
 「ちっとも。仮にあなたがこれをどかすには大変な力が必要でしょう。だけど私は、立ち上がり、両手で抱えてよいしょと持ち上げることができました。あなたにとって難しいことでも、他人にとってはいとも簡単にできるものなんです」
 わたしは自分の足を見つめた。大きな怪我はしていなかった。すぐにでも動かせそうな気がした。
 「明るくなったら、一緒に港を探してみましょうか」とサラリーマンが言った。
 「明るくなったら? 朝になったら、ということ?」
 「それはわかりませんが、とにかく明るくなったら。それでいいではないですか」
 そう言いきったサラリーマンを、わたしはじっと見つめた。真面目なのか適当なのかわからないけれど、なぜだかこのサラリーマンのことは信じてみようと思って、わたしは頷いた。

 「石を捨てたらいいのかもしれないですよね」とわたしは言った。
 「そうでしょうね。だけどこれはあなたの石だから、私は捨てなかったんです。あなたが決めることだと思ったんですよ」
 そんなものなのかな。捨てたほうがいいのに捨てなかったとか、この人の哲学だろうか。自由になった足を抱えるようにして座り、考えていた。わたしの横には石があった。この石が、わたしにとって大きな悩みだったことが嘘みたいだ。

 「明るくなったら捨てようと思います。暗くてよく見えないうちに捨てるのは、なんだか心細い気がして」
    わたしがそう言うと、サラリーマンの目が光った。まるでそれは、見慣れない星みたいに。





[完]


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