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「普通」への憧れは解離だと気づく

きっかけはInstagram

久しぶりにInstagramに投稿したら胸あたりがもやもやした。

胸がギューっともして、感情が大洪水になっていて、今ここにいれない。

まるで学生時代にずっと抱えていた感情が湧き出てきた。

私はInstagramの他にSNSはTwitter、Facebookをやっている。

Twitterはゲーム用とイラストアップ用のアカウントで、ゲームで知り合った人と主に繋がっている。

Facebookは大学時代以降の知り合いが多く、演劇関係者や子育て中のママ、これまで受けた講座で知りあった人がほとんど。

Instagramは鍵アカウントで、中学時代や大学時代の同級生を中心にフォローしあっている。

そんな私、普段はFacebookやTwitterしか投稿しないけど、Instagramに投稿した。

そしたら、ということだ。

私はどうしたい?と問うたら応えた


めっちゃもやもやしてソワソワする。

本当は投稿自体というよりも、学生時代の友人にみられた履歴が出てきてから感情が慌ただしくなった。

特にCという子に見られてからだ。

私は、そのもやもやが消えないもんだから、「私はどうしたい?」と胸(私のハート、感性)に聞くと、「Cと縁切りたい」と応えてきた。

じゃあ縁切ればいいじゃない、と思うけど、頭(私の理性)はそれは嫌だと言う。

( ∩'-'⊂ )( ∩'-'⊂ )( ∩'-'⊂ )( ∩'-'⊂ )???
なんぼのもんじゃい!!!!

私は「普通」に憧れる

結局、私の「『普通』への憧れ」がこの感情を引き起こしていると行き着いた。

例えば、学生時代の友人とは卒業後もたまに会ってわいわい楽しく食事、とか、同窓会でわいわい、とかそういうの。

それが当たり前だという、思い込み。

私は友人はいるけど、どうせ嫌われているという気持ちがどうしても抜けず、会うのが億劫になることが多い。

周りみたいに学生時代に強い信頼をきずけたら良かったのに。

それができない私はダメだ、普通じゃない私は価値がない。

そう思った。

感情を味わっている時、同居している彼がなんで(価値のないはずの)私と一緒にいてくれるの?と不安にもなった。

Cは、友人も多いから私の中でも憧れとともに、私の中の『普通』を刺激してくるのかもしれない。

Cは悪くないんだけどなぁ。

「私の普通」=「最強」?


もう少し探ってみると「こんなこと悩んだりしない」「こんなこと失敗しない」「失敗や後悔はしないものだ」といった解離的な考えも出てきた。

ん?私の普通って「最強」なのでは、、?

いくらCだって、誰だって悩んだり、失敗や後悔はあると思う。

もしかして私、傷つきたくなくて、ダメな自分を探してるだけなのかも、と行き着いた。

だから普通を最強のイメージでガチガチに固め、自分の言い訳に使ってるんだ、と。


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