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【新作落語】返納のススメ

だらだらとテレビを見ている夫に妻が怪訝な顔で声をかけます。

妻「ねえ、ちょっとあんた。いつ行くの」
夫「ふえっ?どこへ?」
妻「どこへってあんた、和歌山やがな。あたしの実家。お父さんがミカン取りに来い言うてて、ああ、それなら俺が日曜に行ってくるわ言うてたがな」
夫「ああ、そやそや。たしか言うとったなあ」
妻「ほんまにすぐ忘れる。五秒前のことも忘れるんやから」
夫「五秒は大げさやろ。鳥類やないんやから」
妻「ほな、私はその前に何言うた?」
夫「何やったかな…?」
妻「トイレの電気つけっぱなし」
夫「ああ、そやそや。言うとったなあ」
妻「ほんまに鳥と違うん?そんなら、私が先週一緒に頼んどいたことも忘れとるわな」
夫「それは遥か昔やから当然忘れとるわ」
妻「四、五日前を青春時代みたいに言わんといて。ほら、実家に行ったら、お父さんに、免許の返納を勧めてほしいって」
夫「あ~、そういえば、頼まれたような…おぼろげな、淡い思い出が…」
妻「ちゃんと言うたがな。もうお父さん八十を超して独りやし、危ないから免許は返せるもんなら返してほしいて。大丈夫やと思うとっても、いざ当てたらオオゴトやろ」
夫「そらオオゴトや」
妻「自分を死なせるのも他人を死なせるのもあかんしな」
夫「そらあかん。どっちもあかん」
妻「せやけど老人のプライドいうもんがあるさかい、娘に言われたら意固地になって多分断るやろ。せやからあんたに上手いこと言うてほしいって」
夫「あ~、なんとなく聞いた覚えがあるわ」
妻「ちゃんと言うた。あんた、わかったわかったってテレビ観ながら言うてた。忘れとるんやのうて、端から聞く気がないんと違う?鳥やのうて、御利益の無いお地蔵さんか?」
夫「それは鳥以上になったんか鳥未満になったんか、ようわからん言われようやな…」
妻「とにかく、もう出発して、ちゃんとお父さんに免許の返納、上手に勧めてきてな」
夫「上手くいくやろか…。最近あんまり会うてもないしな…。いや、わかった。ほな、ミカンもろうて、返納な、勧めてみるわ」

そんなこんなで出発する夫。車で一路、和歌山へ。

夫「せやけど、お義父さんてそんなに危ない運転する人やったかなあ。まあ、歳も歳やし、判断力やなんや、いろいろ鈍ってくるさかいな。もしかしたらどえらい危険なドライバーになっとるのかもしれん。高齢者事故の話もよう聞くし、恐ろしなあ。さてさて、着いたで。ごめんくださ~い。和博です~」
爺「お~お~、和博君か。まあ上がりや。遠いとこわざわざ来てもろてすまんのう」
夫「お義父さんもお元気そうで」
爺「それがええことないねん。ミカンのカゴをな、ヒョイと持ったらガッとなって腰を痛めてもうてなあ」
夫「ヒョイと持ってガッですか。大変ですね」
爺「そうやがな。えらいことや。ミカンを郵便局にも持っていかれへんやろ。それにな、郵送やったらドドッとなってバーンなったらあかんからな、もう、和博君か泰子に取りに来て貰うんが一番ええと思うて」
夫「そらそうです。ドドッとなってバーンならんようにちゃんと持って帰りますんで」
爺「あんじょうしたってな。ほんでな、ミカン、なんぼかまだ配らんといかんとこがあるんやけど、わし今腰があかんやろ。せやから和博君、悪いけど、手伝うてもらえへんやろか。サササーッと行ってハイハイハイと配るよって」
夫「ええ、お安い御用ですよ。サササーッと行ってハイハイハイ」
爺「ほんだらわし、運転するさかい、一緒に乗ってもろてな、積み下ろし頼むわ」
夫「えっ。運転ですか…」
爺「そうやがな。ちょっと遠いんや。まあ車でビューッと行ってキュッと帰ったらすぐや」
夫「ビューッと行ってキュッですか…あの、運転は私がやりましょか?」
爺「いやいや、場所がわからんやろ。教えるのも手間やさかい、積み下ろしだけ頼むわ」
夫「お義父さん、車の運転の方は、その、ええと、まだ大丈夫でっか?」
爺「運転?そら大丈夫やがな。わしはハンドル握る時はな、いつも【あほかいな】の心持ちで乗っとるんや」
夫「(怯えて)【あほかいな】ってなんですの?」
爺「ええからええから、ドーンと構えて助手席におったらええ。ほな、ミカンはもう荷台に乗せとるから、出発や」
夫「あ、安全運転でお願いします」
爺「わしはいつでも安全運転やで」
夫「(小声で)ほんまかな…【あほかいな】の心がけってなんなんや…恐ろしいで…」

なにやら不穏な空気ですが車で出発する二人でございます。

爺「後ろの車、なんやえらいふかしよるな」
夫「あ、そういや、車間を詰めてまんな。こ、これは煽り運転でっせ。お、落ち着いてくださいよ!やる気かこのクソボケカスいうて抜かさんようにしたらあきまへんで!ほんで車停めて出て来いコラァ舐めやがってド畜生いうてドア蹴り回ったりしてもあきまへんで!」
爺「いや、そんなことはせえへんがな。煽り運転気にするな、ちゅうてな、これが【あほかいな】の【あ】や」
夫「…え?【あほかいな】て、そういう意味やったんですか?」
爺「そうや。ムキになったり怖がってスピード上げたらあかん。悪質なのは後で通報や。ドラレコにも記録されとるさかいな」
夫「はああ、最近のドラネコいうのは賢いんですなあ」
爺「いや、猫やない。ドライブレコーダーやがな。猫はなんも助けてくれへんがな。ほら、二車線になったら追い越して行きよった。ムキになったらあかんのやで」
夫「ほんまですな。あ、あの自転車のおばはん、危ないなあ。車道でフラフラしよってから。ク、クラクションをバンバンバンバン鳴らしてどけええオハバン危ないやろがあってやったらあきまへんで!」
爺「そんなことしてびびらしたらさらに危ないやろ。減速してゆっくりやりすごしたらええのや。これが【あほかいな】の【ほ】で、歩行者・自転車に十分注意っちゅうやつや」
夫「なるほど。…おおっ、ここからずいぶんな急カーブですな。ド、ドリフトは駄目でっせ!峠の最速王とか目指したらあきまへんよ!もう既に紀州の死神とか高野山の黒い稲妻とか呼ばれてたりとかやめてくださいよ!」
爺「わしを何やと思っとるんや。ここからはさらに減速や。カーブの手前でスピード落とせっちゅうてな、これが【あほかいな】の【か】なんやで」
夫「なかなかに考えられた標語やったんですな。あれ?この音はなんですやろ?」
爺「ああ、スマホが鳴っとるな」
夫「ス、スマホを今操作したらあきまへんよ!LINEでスタンプ送信するのもあきまへん!あと画面をいじってポケストップ回したりするのもあきまへんよ!」
爺「…あのな、【あほかいな】の【な】は何やと思う?」
夫「なんでっしゃろ?」
爺「ながら運転事故の元や。電話は後からかけ直したらええことやからな。ほんで、なんや、君はそないに運転しながらスマホいじっとんの?ストップしてスタンプやら?」
夫「い、いやいやいや滅相もない」
爺「まあええわ。さあ着いたで。ミカン降ろすのよろしゅう頼んます」
夫「お安い御用ですわ。どっこいしょ」
爺「ヒョイとではなく、ギュッと持ってな。ギュッとやで。でないと腰やるで」
夫「ヒョイとではなくギュッとですな。はい、ヒョイと。あ、イタタタ…」
爺「ギュッと言うたやろ。すんまへん佐藤はん、これ、降ろすの手伝うてや」

そんなこんなで帰路につく二人でございます。

爺「すまなんだなあ、あんたもそこそこええ歳なの忘れとったわ」
夫「いやいや、大したことないですわ。それにしてもお義父さん、運転えらい丁寧でしたなあ。正直に言いますけど、今日は泰子さんに、お義父さんへ運転免許の返納を勧めて来い言われましたんや」
爺「運転免許の返納?そらまあわしも歳やからな、心配されるのも無理ないがな。けど、わしの運転はどやった?」
夫「いや、お義父さんの運転ならまだまだ大丈夫ですわ。十分すぎるほど安全で。死神やら稲妻やら心配してすんませんでした。あれは菩薩の運転ですわ」
爺「言うことが極端やなあ。けどわしはな、女房が生きとった頃からずっと、あんたは車を運転する時だけは人格が変わったように丁寧になると、こう言われてましたんやで」
夫「プペルとガクトいうやつですな」
爺「それジキルとハイド違うか?まあ、せやから運転に関しては一生、慎重にさせて貰うし、時期が来て体が動かんようになったら自分でキッパリ返納もしますさかい、心配はありがたいけど大丈夫やと言うといてや」
夫「よう言うときます。そしたらそろそろ帰りますわ」
爺「いやいや、夕飯を食うて帰ってや。今朝に近所からええ素材を貰うてんのや。わし一人では持て余すよってな、今から作るさかい」
夫「いやそんなお気遣いなく」
爺「何を言うんや遠慮せんといてや。料理やバーッと切ってザーツとやったらすぐやがな」
夫「バーッと切ってザーッとですか。ほんだらすんまへんご馳走になります」
爺「…バーッとやってザーッとこしらえて、へいお待ちどうさん」
夫「めちゃめちゃ早いですな。しかも、こ、こりゃ豪勢ですなあ!ええんですかこんな上等なもん?」
爺「ささ、どんどんいきなはれ。あ、わしは一杯やるけど、あんたはナシやで。これから運転して帰るさかいな」
夫「あ、はい。それは遠慮しときます。こんなご馳走目の前にして、もう、断腸の思いですが、止めときます」
爺「実はな、これが【あほかいな】の【い】や。飲酒運転厳罰厳禁っちゅうことや」
夫「素晴らしい。もうドライバーの鑑ですなお義父さんは。わはは。では、いただきます…(食べに食べて)いや、もう、満腹ですわ。ほな、帰りますんで。それじゃ」
爺「おお、おいおい、ミカンを忘れてもろたら困るがな。ちゃんと積んで帰ってや」
夫「あ、こりゃ失礼。すぐ忘れるもんで。泰子さんにえらい叱られるとろでしたわ。ヒョイとではなく、ギュッと持って、よいしょっと。ほな、おおきに~さよなら~」

夫は運転して家に帰ります。

夫「ただいまあ。ミカン貰うてきたで」
妻「おかえり。ちゃんと返納の件、言うてくれた?」
夫「ああ、あれな。わし、お義父さんの運転で車に乗ったで」
妻「車?」
夫「せやがな。お前が返納返納言うからどんだけデンジャラスな運転かと思うたら、超がつくほど丁寧な高齢ドライバーやないか。助手席におってもヒヤヒヤすること一切あらへん。あれならしばらく心配いらへんで」
妻「なんやの運転て」
夫「だから危ないとか怖いとかな、一度もヒヤリとせんかったってことや。安心や」
妻「そらお父さん、車の運転だけは丁寧や。他のことはバーッとかガーッとか何でも擬音で雑に行動するくせに、運転だけは模範的やもん」
夫「ええっ。お前それ知ってたんか?」
妻「高齢者教習に付き添いで行った時も教官さんにえらい褒められてたんやから。これからも【あほかいな】でお願いしますね言うて」
夫「それも知ってたんかい」
妻「運転やったらあんたの方がよっぽど荒いがな。煽り運転にも自転車にもイライラするし、カーブでもなんや減速せんと走り屋みたいなマネするし、すぐスマホいじって何かしようとするし、ドラレコ付けな言うてもドラネコやいらん言うし、助手席におってもハラハラしっぱなしやで」
夫「そんならお前、お義父さんに勧めてくれ言うてた免許の返納てなんや?」
妻「また話を聞いてない…。返納言うのは、調理師!ふぐの調理師免許!」
夫「ええっ!ふぐ!?」
妻「お義父さん若い頃に板前やっとったから、免許持っとるけど、もう長いこと捌いてもないやろうし、返せるもんなら返させたいって」
夫「当てたらオオゴト言うのは…」
妻「ふぐの毒に決まっとるがな」
夫「自分を死なせるんも他人を死なせるんもあかんというのは…」
妻「なんかのきっかけで調理させたら危ないいうことやがな。ほんまに御利益のないお地蔵さんやわあ。いやもうトーテムポールやわ。そこにおもろい顔して立ってるだけやん。一つも話を聞いてへんやん」
夫「あ…お、俺…」
妻「なんやの?」
夫「い、今、お義父さんとこで、てっちりご馳走になってきたで!」
妻「なんやて!?自分で調理して!?」
夫「お義父さんの手料理や。バーッと切ってザーッと作ってくれたがな…。ふぐ刺しも唐揚げもぞうすいもたっぷり食うてきた…あ、ヒレ酒だけは遠慮してきたけど…」
妻「ほんであんた、大丈夫なん?」
夫「だ、大丈夫や、大丈夫やけど…」
妻「大丈夫やけど何なん!?」
夫「今日一番、肝が冷えました…」

(終)


【青乃屋の一言】
高齢ドライバーの免許返納というテーマは面白いと思うので、もっともっと練り込んで、また新たに書きたいと思っています。関西版ですが、他地域のバージョンに直すのもOKです。