落語台本続き。私の肌感覚で言うと、落語台本の需要は確実にある。そのためであろう公募も多数ある。才能が渇望されているのだ。けれど「新進の落語作家」の噂は聞かない。現れても定着しないのだろう。問題はいくつか思い当たる。最たる要因は落語は台本だけで成り立つものではないということだろう。
落語台本続き。演劇や映画の台本には「当て書き」というものがある。演じる俳優を想定し脚本を書くのだ。落語の台本もこれに近いと思う。私は演者と膝突き合わせ、個性を見極め執筆する。つまり噺家が言う「落語作家がいない」とは、「(自分の感性に合う)落語作家がいない」という意味なのであろう。
noteに創作落語の台本が溢れていることを知り、読み漁っている。そして、落語台本も創作の立派な1ジャンルであることを認識した。けれど不思議である。私の知るどの噺家も「落語作家がいない」と嘆いているのだ。なので私のような者に執筆依頼が来る。いったい、この齟齬はどこから来るのか?
続き。なので噺家は自分で作品を創って演じる。でもこれが一番の理想。けれど皆が創れるわけではない。そして自身にない作風を求める演者もいる。そこで必要とされるのが落語作家だろう。けれど相性も問われる。相性とは感性であり価値観。ここが合致すれば、作品を世の中に出すことは可能であろう。
落語の構想中のためか、立川談志師匠のことを思い出す。私はじつは、二度ほどお話させていただいた。一度目はまだ元気な頃で、二度目はだいぶ弱っていた頃。いや二度目は会話ではない。「便所どこだ?」と訊かれただけなのだから。それでも天にも昇る心地だった。私にとり師匠は偉大な哲学者であった。