(小説)八月の少年(三)
(三)マンハッタン急行
駅の改札を抜けるとラッシュの人波の中マンハッタン急行のホームへと急いだ。ホームへ向かうにつれ徐々に人波は薄れ、ホームの階段を上る時にはわたしひとりになっていた。息を切らしプラットホームに上がるとそこにも人影はなかった。
どういうことだ?あたりはしんと静まり改札前のざわめきも今は遠い夢のように思えた。列車はぽつりと退屈そうに佇んでいてとても発車時刻が迫っているとは思えない。
駅員は?ホームの端から端まで見回してみたが誰もいない。いつのまにか宵闇が押し寄せホームの灯りへと一斉に火が灯った。
どうなっているのだ?運転手もいない。わたしは先頭車輌から最後尾の車輌まで歩いた。列車のドアは開いていた。わたしは軽い気持ちで列車に一歩足を踏み入れた。静かだ。誰もいない。本当に発車するのか?わたしは列車に乗り込み車内を見回した。
するとどうだ!突然列車のドアが閉まり汽笛が鳴った。
なに?まさか発車するのか?
おい待ってくれ。
けれど列車は動き出した。
おい誰か止めてくれ、誰か。
わたしは必死で列車のドアを叩いた。けれど列車は黙々とマンハッタン駅のホームを流れてゆく。一体どういうことだ?まるでわたしが乗るのを待っていたかのようではないか。わたしは成す術もなくただ流れ去る駅の灯りをぼんやりと眺めていた。
ようやく落ち着きを取り戻した。再び車内を見回してみたがやはりわたし以外誰もいなかった。立っているのに疲れ近くのシートに腰を下ろした。外を見た。景色は闇で覆われていた。
ん?夜だとしても余りに暗すぎる。街の灯りひとつ見えないではないか。そうかトンネルに入ったのだな。いつのまに?
わたしは暗いガラス窓を見つめた。そこにはわたしの顔が映っていた。その顔は不安そうにわたしを見ている。まるで今にも泣き出しそうな少年のような顔をして。少年?ふと窓ガラスに夢の中の少年の顔が映った気がした。
これで良かったのかい、坊や?
窓ガラスの自分の顔につぶやいてみた。少年へと語りかけるように。そうだ!もしかすると少年もこの列車に乗っているかもしれない。ゆっくりと目を閉じた。この列車はこれから一体何処へわたしを連れてゆこうというのだろう?
「もしかして、わたしを何処かへ連れていきたいのかね?」
夜明けの夢の中でわたしがそう尋ねた時、少年は確かにうれしそうに頷いた。
坊や、きみは一体わたしを何処へ連れてゆくつもりなのかね?
「ひまわり畑」
「何?」
突然声が聴こえた。驚いて目を開けると目の前に車掌が立っていた。おぉ車掌がいたのか!
一安心したのも束の間車掌の奇妙な姿に驚かされた。車掌はなぜか自分の顔全体を帽子で覆い隠していたのだ。そんな格好でものが見えるのか?
「次は、ひまわり畑駅」
車掌がアナウンスした。駅?それが駅の名前なのか?通り過ぎようとする車掌をわたしは急いで呼び止めた。
「きみ、この列車は」
わたしが尋ねようとすると車掌はそれより早く答えた。
「確かにマンハッタン急行テニアン行きで御座います」
何?どうしてわたしが尋ねようとしたことがわかったのだ?何て奇妙な車掌だろう。
「そうか、ならいいのだが」
それからわたしは切符のことを思い出し、歩き去ろうとする車掌を再び呼び止めた。わたしはマンハッタン駅の駅員から切符を受け取って以来ずっとその切符を手に握り締めていたのだった。
「この切符でいいのかね?」
面倒くさそうにわたしのシートまで戻ってきた車掌に切符を見せた。見せたといっても相手に見えているかはわからない。
「この行き先は何だね?それに日付も間違っている。今日はまだ」
車掌はけれどまた最初の質問の時と同じように後に続くわたしの言葉を遮って答えた。
「心配いりませんよ、お客さん」
「しかしきみ」
車掌は急いでいるのか落ち着かない様子だった。
「その切符でちゃんと目的地まで行けますから」
「本当かね?」
「ええ」
「ではいつ頃着くのかね?何しろ初めて乗る列車でな」
「いつ頃と言われましても」
「わからないのかね?」
本当に車掌なのか、それとも見習い?他に誰かいないのだろうか?
「どうしてわからないのだね?」
「それは」
「それは?」
わたしは返事に困る車掌を問い詰めるように尋ねた。すると車掌はいきなり怒ったような声で言った。
「いずれにしろ、わたしたちはもう引き返せませんから」
引き返せない?何のことだ?
「なんだね、いきなり」
まさか。まさか帰りの列車がないとでも言うのではあるまいな?
「引き返せないとはどういうことかね?きみ」
さらに問い詰めるわたしに車掌は叫ぶように答えた。
「もう引き返せないんですよ。もう、なにもかも」
なにもかも。
しばし沈黙がわたしたちの間に落ちた。
車掌の声は震えていた。そしてそれはどこか投げやりな絶望的な感じがした。どうしたのだ?わたしが何か気に障ることでも言ったのか?
車掌はけれどすぐに落ち着きを取り戻した。
「失礼いたしました」
車掌は一礼すると再び歩き出した。
「おい待ってくれ、きみ」
けれど車掌はもう振り返らなかった。わたしも疲れていたせいかもうそれ以上質問する気になれなかった。その代わり叫んだ。
「きみ。少年を見かけたら教えてくれないか」
「次はひまわり畑駅。お降り遅れのないよう、お気を付け願います」
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