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(小説)八月の少年(四)

(四)ひまわり畑駅
 闇の彼方に光が見えた。列車はまだトンネルの中を走り続けていたのだ。なんと長いトンネルだったのだろう、ようやく出口か。段々と明るさが増してゆく。それにしても随分眩しいまるで昼間のような光、おおっ。
 そして列車はトンネルを抜けた。するとどうだ、突然青空が広がり眩しい8月の光があたり一面に差した。照りつける夏の午後の日差し。何という眩しさだ。わたしはつい手で目を覆った。気付くと列車は長い長いひまわり畑の中を走っていた。
 しかし待てよ?列車に乗ったのは宵の始め。あれからまだわずかトンネルひとつ抜けただけではないか。なのにこの眩しい午後の日差しは何だ?一体あれからどれだけの時が流れ今は一体何時だというのだ?わたしは急いで懐中時計を取り出した。
『8時15分』
 何?
 けれどよく見ると時計の針は止まっていた。故障か?妙だな、今まで一度も止まったことなど無い時計が。一体どうなっているのだ?何もかもがおかしい。何もかもが、わたしは。
 もう引き返せないんですよ。
 ふと車掌の言葉が浮かんだ。なぜだろう?窓に差し込む8月の光の中に目を閉じて、気を落ち着かせるように一日の出来事を思い返した。
 夜明けの夢、少年、マンハッタン駅の駅員、切符、プラットホーム、突然動き出した列車、そして車掌。長い長いトンネル。ひまわり畑。
 まるでまだ夢を見ているようだ。本当にこれは現実なのか?列車の音は確かに響き日差しは眩しく、暑さに再び目を開くとそこには鮮やかなひまわりの波が続いている。もう一度止まった針を確かめながら懐中時計をしまうと、わたしは再び切符を眺めた。切符はすっかり汗ばんでいて印刷された文字は薄れていた。
 "Manhattan express August 6th,1945"
 "Oze"
 わたしは大事に切符をズボンのポケットに入れた。
 もう引き返せないんですよ。
 いずれにしろ、わたしたちはもう引き返せませんから。
 またもや車掌の言葉を思い出した。わたしたちはもう引き返せない。そうだ確かにそうなのかもしれないね、坊や。Oze。Ozeとは?きみはこれからわたしを、もう引き返せないどんな場所へ連れてゆこうというのだね?


 気が付くと列車は止まっていた。ひまわり畑に囲まれた駅のプラットホームだった。あたりに人影はなかった。列車のドアが開く。蒸し暑い真夏の空気が押し寄せる。誰もいないプラットホームの端から端へと太陽に向かうひまわりたちを揺らしながら風が吹いてゆく。
「しばらく停車いたします」
 再び車掌だった。列車を一巡りして折り返してきたのだろうか?暑いだろうに相変わらず帽子で顔を覆い隠している。
「何、しばらくとはどの位だね?」
「時間は決まっておりません」
「何?それはまた随分のんびりした話だねぇ」
「ええ発車前にはベルが鳴りますので」
「そうか」
「それまではホームに降りて、ゆっくり景色などお楽しみ下さい」
 景色を楽しめか。まったく暢気な話だ。列車の窓から駅の看板を眺めた。そこには確かに『ひまわり畑駅』と書いてある。何と妙な駅の名だろう。ふと思い出しわたしは駅員に尋ねた。
「ところできみ、少年を見なかったかね?」
「少年?」
「この列車に乗っていると思うのだが?」
「あ、いいえ。少年など」
 わたしの問いに何を慌てたのか、車掌は急にホームへと降りた。が降りたのにはそれなりのわけがあったようだ。
 駅(とはいっても無人駅らしく駅員はいない)の改札の前に一人の男が立っていた。車掌は暑さの中帽子を押さえながら改札まで走り男の切符を検札した。検札が済むと車掌は何処へともなく消え、男だけがホームへとやって来た。わたしの車輌の前を通り過ぎた後、再び引き返して来た男は結局わたしの車輌に乗車した。何処に座るのだろうと眺めていたら、何と!男はわたしの向かい側に座った。妙だな他に客はいないのに、なぜわざわざわたしの前を選ぶのだ?他に空いたシートはいくらでもあるだろうに。しかも男はシートに腰掛ける時わたしを無視するかのように一言の挨拶もしなかった。
 男がわたしを無視したように、わたしもまた男を無視することにした。わたしは窓にもたれひまわりを眺めた。ひまわりたちは気持ちよさそうに風に吹かれわたしを手招きするように揺れていた。こうやって無愛想な男と向かい合っていても面白くない。よし車掌が言ったようにホームに降りてみるか。そして列車に戻ったら男から離れたシートに座ればいいのだ。そうしよう。わたしは立ち上がった。けれど男はやはりわたしに対して何の反応も示さない。何という、完全にわたしを無視しているのだな。それともまさかわたしが見えない?
 ふと気になって男を見た。その瞬間わたしは自分の目を疑った。
 おお!
 その男はなんと、学者仲間である科学者Sだったのだ。まさか、どうしてこんな所で。なぜすぐに気付かなかった?何をぼんやりしていたのだろう?わたしは興奮を覚えた。彼はまだこっちに気付いていないようだ。早速声をかけた。
「きみ」
 ん?
 けれど反応がない。聴こえなかったのか、それともまさか人違い?今度は慎重に話しかけた。
「もし、失礼だが」
 咳払いもしてみせた。けれど本当に反応がない。どういうことだ?
「おい、きみ。わたしの声が聴こえないのかね?人を無視するのもいい加減にしたまえ」
 とうとうわたしは怒鳴った。けれどやっはり反応はなかった。もしかすると本当に聴こえないのか?そしてやっぱり見えないのではないか、わたしのことが?不安になったわたしは今度は彼の肩を叩いてみることにした。彼の肩にゆっくりと手を置いて。しかし。
 え、何?
 確かに手を置いたつもりだった。確かにだ。ところがなんと彼の肩に触れたはずのわたしの手は彼の肩をすり抜けていった。まさか。体中に戦慄が走った。その時背後からひとつの声がした。

「ここは、過去の時間駅なのです」
 振り向くと車掌が立っていた。
「何?」
 何だ、過去の時間駅とは?
「そして彼はこの時間駅の住人」
「ちょっと待ってくれ。きみは何を言っているのだ?」
 わたしは怒鳴るように言った。けれど車掌の声は冷静だった。
「つまり時間駅の異なる彼は、わたしたちとは接触できないのです。たとえそれがあなた自身だったとしても」
「?」
 わたしは車掌の言うことが全く理解出来ず、ただポカーンと口を開けたまま車掌を見ていた。
「きみ、もう少しわたしにわかるように説明してくれないか?」
「ええ、そうですね。何というか」
 車掌は困ったように(と言っても顔の表情がわかるわけではない)わたしを見つめ返した。
「もう少ししたら、わかりますよ。この列車に慣れれば」
 そう言い終わると車掌は無責任にも歩き出した。
「おい待ってくれ」
 とっさにわたしは車掌の肩を掴んだ。掴めた、確かに車掌の肩はちゃんと。けれど何とそれは細い肩だろう。まるで子どものような肩だった。
「何だかわけはわからんが、つまりこういうことかね?」
 車掌の肩から手を離しわたしは再び科学者の方に目を移した。
「ここにいる彼は、過去の人間だと?」
「その通りです」
 うーん。
 沈黙するわたしを置いて、再び車掌は歩き出した。
「待ってくれ、もうひとつ教えてくれ」
「何でしょう?」
 車掌は歩きながら答えた。
「ここが過去の時間駅だというのなら、そして彼がこの時間駅の住人なら。わたしはいつの住人なのだ?そしてきみは?」
 車掌は立ち止まり、じっとわたしを見つめた。帽子に隠れてはいるが確かにその目はまっすぐにわたしを見ていた。
「あなたは」
 車掌はゆっくりと答えた。その声はなぜか震えていた。
「1945年8月6日8時15分駅の」
「8時15分?」
 わたしは驚いて車掌の言葉を遮った。(その時わたしは時刻にばかり囚われ、日付への注意を怠ってしまったのだが)
「8時15分だと。何だね?その時刻に何か特別の意味があるのかね?見たまえほら、この時計も8時15分で止まっている」
 わたしは車掌に止まった懐中時計を見せた。けれど車掌は少しも驚かなかった。
「わたしも同じです。わたしもあなたと同じ8時15分駅の住人。なぜならわたしたちは」
 けれど車掌の声は詰まった。それから突然の嗚咽。
 どうした、なぜ泣いているのだ?一体どうして?
「きみ」
 できるなら車掌の肩を今度はやさしく掴まえてあげたかったのだが、わたしは小さく声をかけるにとどめた。車掌は健気に言葉を続けた。
「なぜならわたしたちは、そこへ向かっているのです」
 そう言い終えると車掌は静かに歩き出した。
 そことは何処だ?
 けれどわたしはもう何も聴かず車掌の背中を見送った。
「そうか、ありがとう」
 そして沈黙が落ちた。わたしはシートを離れ列車のドアの前に立った。気分が重かった。ひまわりが風に揺れていた。
 そうだ、ひまわりを眺めようとホームに降りるつもりだったのだ。どうしよう?けれどそう思った瞬間突然空が翳った。青空が消え照り付けていた8月の太陽が灰色の雲に覆われた。

「そろそろ発車の時刻でございます」
 車掌の声が聴こえた。

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