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(小説)八月の少年(五)

(五)稲妻
 発車のベルが鳴った。と同時に風が止んで揺れていたひまわりたちが一斉に止まった。動きが消えたひまわり畑の景色はさながら一枚の静物画だった。ベルが鳴り終わり列車のドアが閉まった。すると待っていたかのように曇った空から雷鳴がとどろき、それを合図に雨が降り出した。雨はすぐに豪雨となって地上を襲った。雨に打たれひまわりたちが濡れてゆく。何という雨、通り雨か?わたしはドアの前に突っ立ったままドアを叩く雨を見ていた。列車は雨の中を走り出しひまわり畑駅を後にした。
 しばらくドアにもたれていたわたしはシートに戻った。そう、わたしが座っていた彼のいるシートの向かい側へ。彼とわたしは再び向かいあった。時間駅の異なる彼とわたし。
 ひとつの稲光りが列車の窓ガラスを叩くように走った。その光は一瞬彼とわたしの顔を照らした。と突然窓を叩く雨の音にまじって声がした。
「それでは署名を」
 ん?
 わたしは一瞬ドキリとした。車掌の声ではない。では誰が?まさか?わたしは恐る恐る彼を見た。すると彼もわたしを見ていた。
 え?
 やはりその声は彼のものだった!彼がわたしに話しかけていたのだ。なんだ、話せるではないか。どういうことだ?車掌のやつ、過去の時間駅などとわけのわからんことを言ってわたしをからかったのか?
「それでは署名を」
 彼は同じ言葉を繰り返した。署名?何のことだ?わたしが尋ねるより早く彼はわたしに一通の手紙を差し出した。すると言葉が、わたしの唇から無意識にこぼれた。
「わかったよ」
 ?
 答えたわたしが戸惑っていた。なぜ?わたしは何もわかっていないぞ。わたしは流れのまま彼の差し出す手紙を受け取った。ちゃんと受け取れた。わたしは手紙を開き中を見た。
 その瞬間わたしは凍り付いた。彼の言う署名の意味がわかった。
 その手紙とは、もう6年以上前わたしが署名し彼がアメリカ合衆国大統領へと送った手紙だったのだ。手紙、それはウランによる連鎖核反応とそれを利用した新型爆弾の可能性について書かれた。
 気付いた時、わたしは手紙への署名を終えていた。過去の時間駅。わたしは近くに車掌がいないか探したがその姿はなかった。もしかして今わたしは過ぎ去ったあの日の中にいるのかもしれない。彼とこの手紙について話し合いわたしが署名した、あの日。今この列車は過去の時間駅であるあの日を通過しているのだ。
 窓を見た。雨に濡れたひまわり畑のひまわりたち。わたしはふと彼に話しかけた。緊張した面持ちの彼を笑わせたくて。
「きみ、ひまわりの絵を描いてもいいかね?」
「え?」
 彼は驚いてわたしを見た。
「いやちょっと、この手紙の最後の所にね」
 けれど彼は答えに困ったように顔をこわばらせた。どう答えたらいいのかわからないのだろう。当然のことだ。あの日わたしたちの会話の中にこんな台詞はなかったのだから。戸惑う彼が気の毒になってわたしはすぐに打ち消した。
「いやジョークだよ」
 それと同時に彼へと手紙を返した。その瞬間わたしはわたしの中から何かが失われてゆくのを感じた。それはすでに過ぎ去ってもう二度と取り返すことの出来ない。わたしは試しに彼の持つ手紙に手を伸ばしてみた。けれどわたしの指はもうそれに触れることはできなかった。
 もう引き返せないんですよ。
 そうだ。確かにもう引き返せない。
 深く目を閉じ祈るようにつぶやいた。突然雨がぴたりと止んだ。わたしの耳には列車の汽笛の音だけが静かに響いていた。


「どうかなさいましたか?」
 車掌の声だった。驚いて目を開けると彼、科学者Sはいなかった。今まで彼が座っていたそのシートに。彼は?わたしは慌てて周りを見回したが彼の姿はなかった。何処に行ったのだ?わたしは急いで車掌に尋ねた。
「彼は?ここにいた彼は何処に行ったのかね?別の車輌?」
「あの方ですか?」
 車掌はゆっくりと答えた。
「あの方なら、たった今下車されましたよ」
 下車?
 どうやって?走る列車の窓から飛び降りたとでも言うのか?
 けれどもうわたしは何も尋ねなかった。そう、確かに彼は降りたのだ。彼が下車すべき彼が下車しなければならない時間駅で降りたのだ。わたしたちが生まれ、そしてやがてわたしたちが死んでいかなければならないように。ただ、それだけのことだ。

 しばらくぼんやりと窓を眺めた。ふいに長く長く続いていたひまわり畑の波が途絶えた。
 おや。
 わたしの今の唯一の希望とも思えたあのひまわりたちの生命にあふれた黄色い波、それが。わたしは言いようのない不安に襲われた。

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