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映画コース終わりました

6週間のドキュメンタリー制作コースが終わった。

何にも楽しいと思えなくて、ほかに見つめるものがないから仕方なく自分を見つめていたそれまでの生活から、打って変わってのカラフルな嵐のような時間だった。

あまりにも大切だったその時間を、少し丁寧に振り返ってみる。ひよっこにはけもの道に見えるありふれた旅路に、しばしお付き合いください。


最初の壁はテーマ決めだった。

最初の2週間で、受講者は個人でテーマを定め、プレゼンをする必要があった。そのプレゼンを見て実際に撮影するテーマを講師が選ぶのだ。

初日の講義の最後に、興味のあるテーマについて生徒が一人ずつ話す場面があった。時間の都合で私に発言権は回ってこなかったが、その時点で私は「漱石についてなんか撮れたらいいな」くらいのぼんやりとしたアイデアしかなかったので、当てられたら何を話そうかとヒヤヒヤしていた。

講師が生徒それぞれのアイデアを聞いて、毎度確かめていたのが「コネクションはあるか」だった。「こんな問題について取り上げたい」なら「その当事者で撮影に協力してくれる人はいるか」と。

私は頭を抱えた。この国に来て1年、主に閉じこもって生活してきた私に、他人とのコネクションなんてほとんどない。

今持てるなけなしのリソースから映画になるものを切り取ろうか。そうするとしても、周囲への関心乏しく生活してきたから、そこからテーマを定めるにはさらなる取材が必要だ。

出かけなくては。インドア根性で何かと言い訳を付けて避けてきた外出を、今こそする機会だ、と感じた。

この映画学校にはオリジナル作品の制作をしない1週間のドキュメンタリーコースもあり、第1週はその生徒と合同だった。そのためその週は一般的なドキュメンタリー制作についての講義とインタビュー撮影・編集の演習が主で、テーマ決めやプレゼンについての指導はあまりなかった。

それでもクラスメイトに比べ自分があまりにも空っぽであることに気づいた私は、テーマ探しに焦っていた。

そこでまず、たまたまネットで見つけた「日本と北欧の文化を融合させた商業施設」とやらに放課後行ってみた。日本も北欧も興味あるし、「なんでその2つを融合させた?しかもロンドンで?」というとっかかりになりそうな疑問点もあるし、テーマになりうると思った。

行ってみるとそこは高級店立ち並ぶ通りの一角で、その施設自体もいかにも高所得者向けという感じで、私は自分が場違いであることを自覚し居心地の悪さを感じた。

取材に場違いも何もあるもんかと自分を奮い立たせつつも、中に入って話を聞くまでにものすごく時間がかかった。周りをうろうろしすぎて、日本人の店員さんに笑われた。

何とかその店員さんに話しかけて、聞きたいことをできるだけ聞いて、日本製の小さいメモ帳だけ買って帰った。そのときは達成感もあったけど、自分の苦手なこと、嫌いなことを自覚した時間だった。

一人で何かを始め、進めること。人に話しかけること。自分で思いついたことに、誰かを巻き込むこと。自分の考えることに自信がないから、それに人様を付き合わせることが申し訳なくて恥ずかしくて仕方ないのだ。

苦手なまんまじゃ生きていけないから、きっとこれは克服のための良い機会だ。だけどきっと、大得意にもなれないんだろうなあ。そんな風に思いながら帰って、お菓子をたくさん食べた。

学校の期間中も仕事のシフトを減らさなかったので、テーマについてゆっくり調べたり考えたりする時間はあまりとれなかった。

焦りと、苦手なことに向き合うプレッシャーとで心がグルグルしていた日、仕事で地下の埃っぽいよくわからん部屋の掃除を命じられた。

誰も通らないような場所だったので音楽でもかけながら作業しようかと思ったが、ふと、「考えるなら今しかない」と思った。

私は「動きながら考える」が苦手で、定期的に机にノートを開きまんじりとする時間を取らないと生きていけない。忙しいときにも発作的に何かをさぼったりしてそんな時間を作ってしまう。

だけどその時は焦りとプレッシャーがとにかく大きくて、机に向かう時間があるなら取材をしに外に出なきゃいけない、考える時間は、外に出る前に取らなきゃいけない、という風に感じた。考える時間は今しかない。流していた音楽を止めた。

よくわからない部屋のよくわからないごみを集めながら、「やっぱり『言葉』じゃないか?」という考えに至った。

北欧について、今の浅い興味と知識からまとめあげて数日後にプレゼンをできる気がしなかった。
対して、「言葉」は私の生活のテーマだ。書くこと、読むことにアイデンティティを見いだしつつ、英語を学ぶことに苦しんでいる真っ最中。人生をかけて向き合うつもりだから、言葉に関してどんな時間の費やし方も無駄とは思わない。これくらい確信のあるものなら、他人を巻き込んでまで推し進めることもできるかもしれない。

この1年間、小さく小さく過ごしてきたけど、英語学習を通してはある程度他人と関わってきた。何人かの先生にお世話になった。そういえば今の職場の店長のパートナーは語学学校で働いていると言っていた。私が「コネクションがある」と言える、ほぼ唯一のテーマかもしれない。

この手の興奮、アハ体験は、あとでものすごい勢いで覚めて低温やけどする、というのは分かっていた。だからあまり喜ばないようにしたけど、「今回の映画に限らず自分が大事にするテーマが定まったこと」「今までのロンドン生活が全くの空っぽじゃないと気づけたこと」「動きながら考えられたこと」がうれしい瞬間だった。

2週目に入り、授業は本格的にプレゼン準備に向かっていった。講師は生徒それぞれの案にフィードバックをし、それを受けて生徒は取材に出かけたり電話をしたりした。私も以前オンラインでお世話になっていた英語の先生にスカイプで話を聞いたり、アポを取ったうえで店長のパートナーの学校に出向いたりした。自分が信じるもののために、他人に時間を割いてもらう。殻を破っている気持ちよさはあったけど、苦手なことに違いなかった。

プレゼンの前々日、私は未だに「言葉」以上のテーマを定められていなかった。私は「言葉は単なる道具ではない」というような、言葉の哲学的側面について取り上げたかった。この短期コースであまりにも深遠なテーマは扱えないのは分かっていたが、「言葉を学ぶって単なるスキル上達以上の楽しさあるよね」くらいの、ライトだけどより深いテーマの入り口になるようなことが扱えればよいと思った。

取材を通して、私は5人の先生と2人の生徒に話を聞くことができた。しかし私がほしかったような、言語世界への入り口になるような話は引き出せなかった。

質問の仕方が悪かったのか、そもそも見当違いなことを私が求めていたのか。とにかく、方針を変えなければ。英語教師の多くは様々な国で教えた経験があること、生徒が英語を学ぶ理由は様々であること、に面白さを感じたので、授業風景を軸に先生や生徒にバックグラウンドを問うインタビューを挟み込む構成はどうか、といったことを考えた。

仕事終わりほぼ徹夜でやっとその程度まで考えをまとめて、いざ講師と対峙した。ほかの生徒と比べて依然としてぼんやりとしたことしか言えなかったが、それ以上の問題はやはり「コネクション」だった。

「お世話になった先生」「知り合いが務めてる学校」は、文脈のない国で小さく小さく生きてきた人間にとって、かなり強固な「コネクション」だった。しかし講師が意味していたのは、「7月14~19日のうち1日、6時間の撮影に確実に応じてくれる人間」だった。

もちろん私も語学学校へ取材に行ったとき、撮影日程や時間について説明はしていた。店長のパートナーも、正式な許可を出せるよう動いてくれていた。しかし相手はそこそこ大きな学校であり、1日2日で許可が下りるような雰囲気ではなかった。

講師には、「今の時点であなたが持っているコネクションは弱すぎるから、テーマを変える必要がある」「以前同じような状況でプレゼンを強行した生徒もいたけど、不確実とわかってる案を採用することはできない」といったことを言われた。私はこの数日間でできるだけのことを、しかもものすごく苦手なことをやってきたのに、これ以上進めないのか、ととても悔しかった。

そのとき講師が例として提案した代替案は、「この映画学校にいる国際色豊かな生徒たちへのインタビュー」だった。過去に途中でプロジェクトが座礁し、このようなテーマに切り替えて映画を作り上げた生徒たちがいるらしい。しかし私はそのテーマに全く興味が持てなかったし、先生が示すものをそのまま取り込むようなことはしたくなかったし、かといって自分なりに作り変える余裕もなかった。

それまでの授業で講師は何度も、It happens!と言っていた。うまくいかないこと、ハプニングは当たり前。方針を切り替える柔軟性とか、プランBの準備とかが大事と。

コネクションについて指摘されることは分かっていたので、私も弱々しいプランBを準備していた。それは「私を撮る」こと。撮りたいテーマを他人から見いだせなかったなら、私の生活の中から言語の哲学的側面を感じる場面を取り出そうじゃない、と。

私は弱々しい声で、My plan B is…と話し始めた。だけど今、数日間やってきたことが行き詰ったことが悔しくて、柔軟性のなさを自覚して自分に失望した私が、私自身を見つめる映画をプレゼンするなんて、無理だ。泣いてしまう。

そう思いながら、私はすでに泣いていた。講師の前で、クラスメイトのいる教室で。なんて子供なんだと、さらに悔しくてさらに泣いた。

私は今、他人の目にどう映っているだろう。高尚すぎるテーマを立て、行き詰っても考えを切り替える柔軟性を持ち合わせず、興味はないながらも実現可能性の高い案に飛び移ることもできないプライドが高く経験の浅い若者?

卒論を書くとき、「壮大な構想を座礁させるよりも、自分の無能さに向き合い小さなものを完成させる方が偉いのだ」なんて思いながら中身のない論文を提出したのだけど。
まだまだだったか。私はまだこんなにも子供だったか。

講師やクラスメイトはみな温かく慰めてくれた。講師は決して強圧的な人ではなく、パワフルながらも思慮深い、大変尊敬できる人物だった。メンタルヘルスの重要性にも何度も言及していて、この時の私にも「決して無理をする必要はないんだから、あなたがconfortableなように」と言ってくれた。

結局私はその日は早退し、翌日のプレゼンも諦めてしまった。うん、かっこ悪い。ここで取り乱したなりにしがみついた方がよいとも思ったが、少なくともその日それ以上の作業を泣かずにすることは無理だったと思う。

ただ、翌日冷静さを取り戻し、クラスメイトのプレゼンを見たときには、もう少しできたかもなあ、と思ってしまった。クラスメイトもみなタイトなスケジュールの中準備したプレゼンだから、完璧なものではなかった。授業では作品のプレゼンに使う文章やビジュアル資料についても習っていたから、私は「テーマを決め、それをドキュメンタリーとして成立するよう練り、文章を書き、ビジュアルを作り、プレゼン練習をし…」と進めていく必要を感じて圧倒されてしまっていた。だけどすべてを完成させた生徒などいなかった。それでもどのプレゼンも素晴らしかった。

それだったら、昨日泣いて帰ってしまったのは仕方ないにしても、一晩寝て翌朝何も考えずに学校に行って、午後のプレゼンまで3時間でできることをする、なんて選択肢だってあっただろうに。なんならそもそもの「コネクション」だって、なんか適当にごまかして推し進めることだってできただろうに。

私はガチガチに緊張している友人がいたら、「考えすぎだよ~」と笑い飛ばすタイプの人間だと思っていた。だけどこの時の私は完全に考えすぎていた。苦手分野に立ち向かい、それまでの無味乾燥な時間を取り戻すように予定を詰め込み、睡眠時間を削り、力の抜きどころが分からなくなっていた。

分かっていたはずなのに、できなかった。これが本当に悔しかった。

「泣いてしまったのは仕方ないとしても、その後の行動はどうにかできたのでは…」という意識から、このままクラスメイトのプレゼンを聞くだけで終わるのは嫌だと思った。そこで、完全なプレゼンはできないがとにかく何か話す時間をくれと講師にお願いした。

そして私は何の資料もないまま、私が取材で見聞きしたこと、撮りたかったことについて適当にまくしたてた。泣く前の限界状態では「私のうっすいテーマじゃ5分もプレゼンするなんて無理…」と思っていたが、結局つたない英語でつっかえながらだが6分ほど話していた。

この後私はほかの生徒のプロジェクトでプロデューサーとして撮影や編集に関わり、そこでもいろいろと冒険をした。そのことについてもnoteに残すつもりだったが、前半を書くのに思った以上に時間と気力を使ったので、後半まで書ける気がしない。もし書いたら、その時はまたお付き合いください。

とにかく私はこの経験で、自分の好きなことや嫌いなこと、得意なことや苦手なことに向き合うことができた。無味乾燥な生活の中、「好きなことなんてない」と思っていたけど、久しぶりに「楽しい」と思いながら生活することができた。人の時間を使うのは大嫌いだけど、裏腹に取材活動を楽しんでいる一面もあった。編集は特に楽しかった。カメラワークを褒められてうれしかった。

ほかにもチームとしての働き方とか、自分の英語力の限界とか、いろんなことを考え感じながらの6週間だった。上述のように私はプレゼンを諦めてしまったし、このコースを100%活かしきったとは言えない。しかし学んだものは大きいし、あとはこの学びを意味あるものだったといえるよう、今後の生活に生かしていくのみだな、と思う。

少し休みたいけど、もう部屋で膝を抱えるような生活に戻りたくはない。次は何をしようか、少しずつ考えていきたいと思う。

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