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(一旦)決め(てみ)た

「仕事以外に何か私を説明するものを持たなきゃ、消えてしまいそうだ」

「時間を忘れるくらい好きなものなんて何もない。そんな私でも、図々しく何かを選ばなきゃ」

「いつまでたっても英語が話せない。人と話さざるを得ない環境に身をおかねば」

そんな風に考えた私は、ひとまずの身の拠り所として、「映画」を選ぶことにした。6週間のドキュメンタリー映画制作コース。覚悟も金も話せる言葉もない人間の、小さな小さな挑戦である。


高校・大学と、映画研究部に所属していた。そう言うと決まって返される言葉が、私はとても苦手だった。「映画好きなの?」

映画が特別好きなわけじゃない。映画館にはめったに行かないし、Netflixもついこないだこのコースの受講を決めてやっと登録したくらいだ。

それでも映研に入ったのは、中学生のときに見た「デジスタティーンズ」という映像制作の番組に憧れたから。当時小説を書いていた私は、「一人じゃできない」「視覚的」表現をやってみたいと思ったのだ。

入部して、いくつか作品も作ったけど、その頃のことはなんだか苦い記憶として思い出される。大好きな人たちに出会えたけど、頼って迷惑かけてばっかりだったなあ。自由度が高い部だった分、後回しにしちゃってたなあ。

そんな気持ちをリベンジしたかったのか、大学でも映研に入ったけど、今度は1つも自分の作品を作れなかった。かっこ悪い。こんな自分で生きていくの嫌だ消えたい。


Anyway。今回「何かしよう」と思ったとき、「映画」はすぐ浮かんだ選択肢の1つだった。世の中の映画を愛する人たちのことを考えると恐れ多いけど、何にも興味のない私の中ではそこそこ大きい欲求だ。

「映画好きなの?」は未だに困るけど、今なら声を震わせつつはっきり答えられる気がする。「そんなに好きじゃない。だけど私はこれを選んで、足りない『好き』も頑張って埋め合わせる」


受講は来月からだけど、少し前に2日間の超短期コースにお試しがてら参加してきた。そこで感じること次第では、映画はあきらめて別のしたいことを探そうと思っていた。

久々の早起きに授業中眠たくなったり、不足する集中力と語学力に打ちのめされそうになったりした。

だけどそんなヴェールの向こうで、私は確かに楽しんでいた。どうやったら想像と同じような映像が撮れるかなあとか。面倒だけどもう1コマ削った方が自然な編集になるなあとか。私はあの頃、こういうことにワクワクしてたんだ。久々に同じ気持ちになることができた。

2日目の撮影で、私は図々しくも監督を担当した。時間もなくて、やりたいこともうまく伝えられなくて、満足する作品にはできなかった。もっとやりたい。もう少しうまくできる気がする。私はまだ、中学生のころの憧れを、叶えることも諦めることもできてない。それならば、叶うまで、もしくは諦めがつくまで、もう少しだけやってみよう。ということで、さらに長いコースの受講を決めた。


たった6週間。イギリスに来るとか、縁のない土地の大学に入学するとか、そんなことに比べれば本当に小さな決断のはずなのに、決めるのにものすごくエネルギーを使った。たぶん、「海外に行こう」とか「大学に入ろう」とか、誰かが認めてくれそうな価値観に基づく決断じゃないからだ。あと、自分のお金ですることだから。

将来につながるでもない短期コースに貯金費やすなんて馬鹿かなあとか、そのお金と時間で英語の勉強した方がいいんじゃない?とか。自分だか他人だか分からない声に、胃が痛くなることもある。

そんなときは、人生の長さと、世界の大きさに思いを馳せる。埃のような私の人生、その一瞬をありがたがってどうするの。

どんな生活を選ぶか、選んだ機会を生かすか殺すか。私が決めることだし、それで私がどうなっても、誰も気に留めない。

なんだか、こっちの生活で身につけた孤独な哲学を、実践する機会のような気もする。うまくいけば、このまま行こう。失敗だったら、また悩もう。

色んな予防線が張られた、小さな決断の話である。

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