アジア人物史11世界戦争の惨禍を越えて

第1次世界大戦から第2次世界大戦期のアジアの各国では、誰がどのようなことを考えていたのか。10巻と似た構成で、朝鮮半島から台湾、中国、東南アジア、インド、アラブ、日本の16章からなる。また時代的にはかぶる人物もいて、何度か10巻を参照したりもした。
金性洙(1891-1955)は、李朝末期の地主家庭に生まれ、早稲田大学に学び、財閥創業者の一人である。教育事業も展開、戦後は韓国副大統領に就任するなど、朝鮮民族自立、産業振興に貢献した。三星の李ビョンチョル(1910-87)、現代の鄭周永(1915-2001)、ロッテの辛格浩(1921-2020)、大宇の金宇中(1936-2019)などが財閥をつくり、今日までの産業を育てた。(第1章)
在日朝鮮人前史の人物として金天海(1898-?)が取り上げられている。関東大震災にも遭遇し、横浜・川崎では日本人とともに労働運動に加わり、朝鮮共産党日本総局責任秘書を務め、治安維持法下で拘束され投獄されるも非転向を貫く。戦後、1965年北朝鮮で金恩順の葬儀参加までわかっているが、その後の消息不明。(第2章)
京城帝国大学は1924年法文学部と医学部の構成で開校。朝鮮史講座の解説により、中華を解体再編し新たな東洋史をつくる意図が見られる、今西龍(1875-1932)(岐阜県池田生まれ)は、朝鮮史学を開拓し、古代東北アジアを多様な民族国家が競合しつつ興亡盛衰して変化する共同の場とみていた。 高橋亨(1878-1967)は朝鮮儒学とともに朝鮮文学を研究した。時枝誠紀(1900-67)(東京神田の生まれ)は国語学を講じたが国語政策については批判的であった。小倉進平(1882-1944)は朝鮮語学を講じた。安倍能成(1883-1966)(松山生まれ)は、哲学のリベラリストとしてカントを専攻、戦争末期には近衛首相に早期和平を進言、非武装中立論者。 尾高朝雄(1899-1956)(釜山生まれ)は父方の祖父は尾高淳忠、母方の祖父は渋沢栄一で、現象学的に内鮮一体を説いた。 三宅鹿之助(1899-1982)は財政学の教授であったが、逃走中の共産主義活動家李載裕(第10巻参照)を自宅に匿った。 泉靖一(1915-70)は文化人類学者でオロチョン族の調査や西ニューギニアの調査に参画している。(第3章)
台北帝国大学は1928年に設立され、戦後までの短期間であるが学問の府として役割を務めかつ戦後の国立台湾大学に学縁の継承が行われている。岩生成一(1900-88)の存在が大きく、南洋史学講座を興した。1964年、曹永和(1920-2014)は岩生に呼ばれ、日本で東洋文庫プロジェクトに参画しており、1998年には中華民国アカデミー会員に選出されている。磯永吉(1886-1972)は1912年台湾に赴任、1957年まで台湾にとどまっている。17年しか存在しなかった台北帝国大学の学問がしっかりと国立台湾大学に引き継がれている。(第4章)
蒋介石(1887-1975)は辛亥革命(1911)に参加、孫文(1925年北京で逝去)の信任も得て、国民政府の指導者として中央軍を掌握し、対日戦争にも勝利した形となったが、その後の内戦に敗れ、台湾で政権を構築となった。1971年国連の代表権を失い、1972年のニクソン大統領の訪中、米中和解から台湾の孤立化に至った。全幅の信頼を置く長男の蔣経国(1910-88)は台湾経済の発展と民主化の基礎を築いた。宗一族も取り上げられている。宋嘉樹の長女は宋靄齢(1889-1973)、次女宋慶齢(1893-1981)は孫文夫人、長男宋子文(1894-1971)はハーバード大で経済を学び国民政府の財政に寄与、三女宋美齢(1897-2003)は蒋介石夫人で、最期はニューヨークの豪邸で迎えた。(第5章)
20世紀中国の自由主義の開拓者として、まず胡適(1891-1962)は蒋介石の駐米大使を務めたり、戦後は蒋介石の計らいでアメリカに渡る。寛容の自由主義を掲げ、晩年の1960年、中国人民の疑う自由と疑いを表現する自由の伝統は共産主義を受け入れないと書いた。もう一人の自由主義の人は陳寅恪(1890-1969)である。「宋学とは、日本では朱子学と呼ばれる思想の流派を指す。陳寅恪が目指す中国の文芸復興が、胡適と同じく宋学の復興である」(p.336)1945年までに視力を喪失、文化大革命で迫害を受けるも、彼の文芸復興は他者に開かれている。(第6章)
そして、革命のカリスマ毛沢東(1893-1976)の登場である。文化大革命で失脚した劉少奇(1898-1969)、諦念を伴うほどに毛思想に忠誠を誓った周恩来(1898-1976)、魯迅の後継者で、国民党批判を織り込んだ歴史劇「屈原」を執筆(1942)した郭沫若(1892-1978)らとともに語られる。(第7章)
19世紀末に東南アジア諸国の多くは欧米列強の植民地となり、それがアジア・太平洋戦争期を経て国民国家として形成されていくにあたって活躍した人物が9人の執筆者によって記される。フィリピンの民族的英雄であり作家でもあるホセ・リサール(1861-96)はスペインからの独立革命のさ中で銃殺刑に処せられた。ビルマ(ミャンマー)の建国の父アウン・サン(1915-47)は、日本軍を排撃し47年独立を遂げるが、直後にテロにより殺害される。長女がアウン・サン・スー・チー(1945-)で、今だ内戦の中にある。インドネシアにおいては、オランダ領下での独立運動の末、日本の降伏直後に独立を成し遂げたのがスカルノ(1901-70)である。1965年9月30日のクーデタで失脚するが、真相は現在も明らかでないという。植民地化を免れたタイにおいてはビブーン(1897-1964)が1933年クーデタにより人民党政権の国民国家となるも、1957年のクーデタで日本に亡命することとなった。(第8章)
インドはもちろんガンディー(1869-1948)である。高校生の13歳で幼児結婚をさせられる。欲望との葛藤が終生の課題であったという。インド全土を訪れ行動する聖人となり、イギリスへの非暴力・不服従運動が独立に至った。1948年ヒンドゥー青年の銃弾に倒れた。ビームラーオ・ラームジー・アンベードカル(1891-1956)は新仏教の立場から、「仏教が1.ヒンドゥー教に対抗しうる自由・平等・友愛の宗教であり、2.現代科学の批判に耐えうる合理性を持ち、3.下層民の向上を認め、4.インド文化の伝統を維持し、5.世界性があり、6.マルクス主義に対抗しうる唯一の宗教」(p.565)と説いている。(第9章)
イランではモハンマド・モサッデク(1882-1967)が立憲革命の志として挙げられている。イギリスの石油利権との戦いでもあった。1953年8月のクーデタは、イギリスの秘密情報部M16とアメリカのCIAにより仕組まれ、モサッデクは弾劾裁判にかけられ禁固3年の後は死去のときまで自宅軟禁となった。(第10章)
日本の戦前と戦後の連続と断絶を語るには昭和天皇(1901-1989)が必然である。日中全面せんそうへの流れと戦後の占領軍政策下での昭和天皇が語られる。朝鮮戦争の勃発は昭和天皇に憲法改正と再軍備を支持と語らせる。(p.683)戦争責任の問題は、くすぶり続けている。(第11章)
戦時下の知識人としては、まず尾崎秀実(1901-44)が挙げられている。リヒャルト・ゾルゲ(1895-1944)に連座して、共に東京拘置所で、ロシア革命記念日に絞首刑が執行された。尾崎の父は岐阜出身の文人ジャーナリストで、尾崎も中学は台北中学校卒。一高、東大でマルクス主義に触れ、帝国主義の諸矛盾の沸騰する上海で中国の胎動のダイナミズムに触れ、諜報活動に従事した。ゾルゲは、ナチス党員としての偽装工作でドイツ大使館内にオフィスを構え、日本・ドイツの情報をモスクワに通報した。京都学派の哲学者としては、西田幾多郎(1870-1945)、田辺元(1885-1962)、和辻哲郎(1889-1960)らが挙げられている。(第12章)
プロレタリア芸術運動を中心に、ということで登場するのが中野重治(1902-79)。「梨の花」で記されている日本の近代は「(明治国家は、)自発的で自治的な自然村落に天皇制イデオロギーを流し込み、村の土台に近代国家の基礎を築こうとした。伊藤や井上毅が天皇制国家を創出するための基礎としたのが、中野が生涯にわたり愛してやまなかった自然村落・・・」(p.805)近代の矛盾を描いたのが中野で、それをさらに運動までに展開したのが南方熊楠のようにも思ったりする。「64年の東京オリンピックを画期として都市景観が全面的に劣化し、社会全体が機構的に分断され荒んで行く」(p.807)とも指摘している。その流れのただ中に小林多喜二(1903-33)が居り、少し上に室生犀星(1889-1962)がいて、下に佐多稲子(1904-98)がいると、武藤武美(13章の著者)は書いている。本書を中断して、中野重治を読み、佐多稲子を読んだ次第である。今こそ、自発的で自治的な自然村落が再生できないものかと思うのである。(第13章)
もう一つの京都学派として取り上げられているのは、林達夫(1896-1984)である。父親の転任にともない1902年までシアトルで暮す。福井の社会になじむために、意図的に英語を忘却し、福井訛りに過剰反応した。わが娘も似た小学校生活だったかと想像する。岩波で編集者として活躍する。渡邉一民が同情的に取り上げているのも、マルクス主義とフランス社会学という関係で興味深い。平凡社の世界大百科事典を58年に完結させた。岩波茂雄(1881-1946)や平凡社を創設した下中弥三郎(1878-1961)も登場する。「君たちはどう生きるか」の吉野源三郎(1899-1981)の紹介では、全共闘の山本義隆が吉野の娘の家庭教師であったというエピソードも語られる。まさに、このあたりになると、自分の子供時代の記憶とつながりが感じられる。(第14章)
帝国の文化と副題を付けた章では、女優で歌手で政治家の李香蘭(1920-2014)。満鉄に勤める父親山口文雄の意向から財界の李際春と政界の潘いく桂の二人を義父として、その後も中国娘になったり、日本人になったりしながら、生き延びた。1950年にはニューヨークでイサム・ノグチと知り合い、結婚するも1956年に離婚。1974年から1992年までは参議院議員も務めている。プロレタリア映画運動の岩崎昶(1903-82)や李香蘭を支援した川喜多長政(1903-81)も登場する。李香蘭と張愛玲(1920-95)(第10巻4章)との1944年の茶話会を斡旋している。(第15章)
最後は、帝国日本に抗う女性たちということで、山代巴(1912-2004)、森崎和江(1927-2022)、澤地久枝(1930-)金子文子(1904-26)、新垣美登子(1901-96)らが登場する。まさに、今につながる戦後初期の思想史を紡ぐ女性たちである。(第16章)
自分の親世代の戦前の物心つくころから、戦後の日本で経済が力強く社会を動かすようになって、今また、これからどんな社会になろうとするのかを、考えさせられる。


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