大切に、言語化したい
最近、「書きたいことを書けばいいじゃない」精神のもと、思いついた言葉を全部出す勢いで記事に言語化してきました。
スッキリしていく一方かと思いきや、なんだかしんどさを感じる時も。。
書きたいことを書いているはずなのに、なんだかモヤモヤする現象。
書いてスッキリする記事と、これでよかったんだろうか…、とモヤモヤする記事の違いって、なんなんだろう?
「自分の思考」は言葉と同時に誕生する
そんなことを考えていた折、こちらの本で
言語学者ソシュールの構造主義から、
「自分の思考」が先にあるのではなく、
「言葉」を発した瞬間、"それ"が「自分の思考」になる。
言葉と思考は、同時に誕生する。
うむー、難しい。
続きます↓
そもそも言葉は自分のものではない
そもそもわたしたちは、生まれたときには言葉を持たない。
周りの人たちを真似しながら言葉を覚え、それら"他者からの借り物"を使って話し、記述する。
「言葉を通して思考する自分」=自分
とする考えは危うい。
なぜなら、そもそも言葉が他者からの借り物だから。
***
言葉は新たな現実をつくる
「言葉が思考を作る」
「言葉は他人からの借り物」
なんだか、言葉を迂闊に乱発する恐ろしさを感じ始めた折、こちらの放送を聞きました。
こちらの放送の中で、伊藤亜紗さんの著書「きみの体は何者か」で、
「戦争」というメタファー(比喩)が用いられるようになったことに関して、
言葉は、相手を「ある枠内」でしか思考できないよう追い込むこともできる。
一つの現実を人々の心のなかに作ることができる。
***
複雑なことを、複雑なまま
ここまで考えてみて、好きなことを書けるnoteとはいえ、やはり迂闊に思ったことを乱発していたのは、あまりにも言葉を粗雑に扱いすぎていたのかもしれないなあと、思いました。
そして、ここ最近の自分のしんどさは、なんとなくこのあたりも一因だったのかもしれないと、ぼんやり思いました。
言葉をもっと大切に、
何でもかんでも言語化するのではなく、複雑なことを複雑なままに、置いておくのもアリ(モヤモヤするけど)
もし言語化するなら、世の中がこうあってほしいと思える現実のほうへ連れて行ってくれる言葉を発したいなと思いました。
ただ、言葉が完全に自分のものであるという驕りには気をつけたい。
ここで、あさぶろさんの記事を思い出した。
この記事を読んだときは、
「あさぶろさんがなんだか難しいことを言っている…」
くらいにしか捉えられなかったのですが、少しだけ、理解できたような気がしました(少しだけ)。
大切に言葉を積み重ねたい
言葉は、少し先の、まだ掴めない場所を照らしてくれるもの。現実を作り出すもの。言葉のパワーって、思ったよりすごいもの。
と考えると、やはりその力は、自分や周りを良くしていく方向に使って行きたいなと思いました。(ちょっと驕り入ってますかね。このへんが私の限界です。)
そんなことを考えていた折、こちらの放送↑を聞いていたら、
他者への誹謗中傷を繰り返す人と、その時間を自分を良くしていく方向に使っている人では、365日の積み重ねで大きな差が出る。
ほんとだね。と思った。
自分を、そして世の中を良くしていく言葉って何なんだろう?
考えたい。
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