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名短編のお子様(けっして子供むけではない)ランチ。

『日本文学100年の名作 第6巻 1964-1973 ベトナム姐ちゃん』 (編集)池内 紀 , 松田 哲夫, 川本 三郎(新潮文庫)

新潮文庫100年記念刊行第6弾。大江健三郎、司馬遼太郎ほか、今読むべき名作12編収録。
五輪に万博。好景気に沸く時代にも、文学は実直に鮮やかに日本の姿を映し出す。厳選12編。

こういう短編アンソロジーは普段読まない作家に巡り合う。まあ好きな作家の再認識もあるのだが。嫌いな作家でも読んで見たほうがいいのだろうな。嫌いな野菜は残すタイプなんで。

大江健三郎『空の怪物アグイー』は初読みだったが、『個人的体験』と逆な展開なのに、それ以降の大江文学を暗示させる短編。

小松左京『くだんのはは 』は短編小説の醍醐味を味わった。これ戦時中の怪談話だった。

木山捷平はエッセイのような私小説の短編なのだが、この『軽石 』は味がある。こういう小説は自分の生活や時代のことも考えて想像が膨らむ楽しみがある。また作者が語る世界にタイムスリップしていくような誘う語りで名短編だと思う。

1964『片腕 』川端康成

いきなりですけど川端康成は読みません。太宰の怨念です。それでもここに感想を書かなければならぬなら、とある本を思い出しました。乗代雄介『本物の読書家』で川端康成のこの小説が盗作であると書いてありました。勿論、フィクションです。でも、私ならこちらをお勧めします。偽物の読書家であっても。

それは片腕に手間と申しましょうか?(片手に手間です。自己ツッコミ)。いいんです。もともと文学なんてそんなもんですから。少なくとも川端康成の片腕を担ぐ気には成れません(片棒を担ぐです!)。


1964『空の怪物アグイー』 大江健三郎

大江健三郎の1964年は『個人的体験』が書かれた年でした。それと並行して、このような短編小説を書いていたのです。初読みでした。ここにすでにブレイクのイメージが出てきます。『悪魔の饗応を拒絶したキリスト』。ネット検索しても出てこなかったので架空なのかなと思ったら、『ブレイク聖書画集』の中に入っているらしいです。興味がある人は国会図書館でも行って(ネットでデジタルで見られるはず)見て下さい。

それよりも私は中原中也の『含羞(はじらい)』に興味を持ちました。

枝々の 供(く)みあはすあたりかなしげの
空は死児等の亡霊にみち まばたきぬ
をりもかなたに野のうへは
あすとらかんのあはひ縫う 古代の象のゆめなりき

中原中也『含羞(はじらい)』から

中原中也も太宰の敵なのですが大岡信『中原中也』を読んで評価が変わりました。

「アグイー」という幻想の怪物は、中原中也の亡き子供に捧げた詩から得たイメージで「古代の象のゆめなりき」なのです。それは想像の中で傷害のある息子を亡き者とした作者のフィクションなのでした。しかし、そこには怪物性が存在するのは間違いなさそうだ。


1965『倉敷の若旦那』 司馬遼太郎

司馬遼太郎も初読でした。NHK大河ドラマでおなじみでしたから、その国民的文学というのが嫌らしく感じたのでした。それは司馬遼太郎のせいでもないですね。妙に支持する人たちの偏見的な歴史観ですね。司馬遼太郎は文学です。

この短編も一介の町人が新選組のふりをして敵方である者を成敗して、大騒動になる話で面白かった。「坂本龍馬」に通じる話でもあると解説にあります。まあ、妄想を信じ込んで祭り上げられ、失脚していく人間の哀しさと言える物語です。


1966『おさる日記 』和田誠

パス。


1967『軽石 』木山捷平

軽いけど読んでいて思わず納得してしまう私小説の純文学です。木山捷平も今回始めて読みましたが、こういう作家に出会えるのもアンソロジーのいいところですね。

3円で買えるものを探し求めて、軽石を見つける話です。なんともない話だけど、3円で買えるというのが面白い。3円で買えるものを求めるというのが面白いのです。今は3円で買えるものは、ないでしょうね。3円分はあるでしょうが、一つの商品として形になったものが、軽石なのです。その軽さと重さ。

今は最低いくらのものが買えるんだろうか?と考えてしまいます。駄菓子屋があれば10円かな。そういえば5円アイス・キャンディーというのがあったような記憶が。子供じゃないですけど夢の世界ですよね。50円で10本のガリガリ君(モドキか?そっちがもどきだろう!)が買えるのです。

1967『ベトナム姐ちゃん 』野坂昭如

ドブ板(横須賀)で米兵相手のスナックに勤める弥生子は、ベトナム行きのマリーン(海兵隊)を慰める。それは特攻隊で亡くなった恋人を思い出すからだろうか?戦後、食べるために米兵相手に女を武器に商売をしていた女の包容力と悲しさと。

それは同じ人間として、死地に赴く米兵の不条理さであり、それを花占いのごとく勃起占いで判定する彼女はいつしか「ベトナム姐ちゃん」と呼ばれるが、やがて性病になり精神も病んでいく。

1968『くだんのはは 』小松左京

題名からイメージするのは「九段の母」ですよね。でも違うのです。「件(くだん)」という化け物の話なのです。その展開が上手い。実際にあった話かと思いました。こういう短編が書ける人だから『日本沈没』のリアリティを感じさせたのですね。

1969『幻の百花双瞳 』陳舜臣

陳舜臣も初めて読んだ。在日中国人作家。これは幻の中国料理「百花双瞳」の味を忘れられないオーナーのために、その点心以上の料理を作ろうとする料理長の話。

そういう料理道は、今の大衆食堂時代には流行らない貴族趣味的なのだとする弟子の振る舞い。そうして料理家の哲学を持っていたということなのか?高度成長期時代の話。今はチェーン化された味が美味しいとなっているけど。

神保町の美味しいと言われるカレーも雰囲気だけなような気がする。そうだ、神保町の店は朝から行列の出来る店が多いんだよね。まったく関係ない話だった。

1971『お千代 』池波正太郎

「お千代」というのは飼い猫の名前。猫好きの男とは結婚しないほうがいい、というような怪談話だった。セリフで話を展開させていくので読みやすい。江戸人情噺というような。


1971『蟻の自由』 古山高麗雄

古山高麗雄は「戦争と文学」で『プレオー8(ユイット)の夜明け―古山高麗雄作品選』で読んだが、『蟻の自由』は読まなかったのか?

病死した妹に塹壕の中で手紙を書く兵士の手記。すでに妹はいないのだが、その安らぎが妹の中にあるということなのか?

塹壕も横穴式の防空壕と一人用の蛸壺タイプがあるようで、蛸壺タイプの時は一人だから手紙を書くことが出来るという。「蟻の自由」というのは、少年時代に庭のアリを目薬の空の瓶に入れて学校へ蟻を持っていって放したというように、兵隊もどこかわからない戦地へ連れて行かれそこで蟻のように穴掘りの生活が始まるということを手紙で書いている。

駄目兵士の可笑しみの中に妹への哀惜。そして、孤独な中でもはや死しか考えなくなった兵士の現実。そうしたものが短編の中で描かれており好きな短編の一つになった。


1972|球の行方 安岡章太郎

スルー。

1973|鳥たちの河口 野呂邦暢

湿地帯(諫早湾)の情景描写。傷ついた絶滅危惧種の渡り鳥を助けた話と組合活動の中ではぐれ渡り鳥のような立場になった語り手と重なる。名文と言われている短編小説。

「カスピアン・ターン」という渡り鳥のイメージが「幸福の青い鳥」のように思えてくるのだ。傷ついているから、それは絶望なのだけど。

池波正太郎が会話の流れでストーリーを展開していくのに、こちらは純文学的に風景の描写を重ねながら、やがて鳥が羽ばたく姿までを描写する。

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