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短歌の「私性」についての研究

『短歌と日本人〈5〉短歌の私,日本の私』坪内稔典編

〈インタビュー〉歌人の現場…前登志夫(坪内稔典)〈批評とエッセイ〉万葉集から近代短歌への「私」の変容…永田和宏/近代短歌における「私」の変容…松山巌/近代100年の「私」…鈴木貞美/与謝野晶子から俵万智へ…金井景子/啄木から寺山修司へ…木股知史/尾崎翠,歌のわかれ…林あまり/茂吉の〈私〉,子規の〈私〉…川野里子〈座談会〉高野公彦・宇佐美斉・坪内稔典

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俳人の坪内稔典が短歌の「私性」について歌人に問う。どうしてそこまで「私性」にこだわるのか、俳人にはなかなかわかりづらいところがある。その歴史を探って短歌の「私性」の変遷についても語っているので、興味深い。「私性」というテーマで短歌の世界を覗いてみるといろいろなことが見えてくる。

『「私」の変容』永田和宏

『万葉集』は天皇の代わりに歌を詠む歌があり、天皇の歌とされるものでも、歌人が詠んだものがある。それは天皇の地位(権威)というものを、衣装的に歌で高め、飾る必要があったからだ。天皇の威厳ある姿とか。それで歌人は天皇の姿ばかりではなく、予言的(巫女的)な歌を詠むのはそう願いたい祈りのような気持ちからだという。

それが言葉にすることで実現可能になる言霊というもの力だ。例えば私がパフェを食べるぞとここで決意するとそう仕向ける自分の中に言霊としてパフェが宿るというような。実際はここで宣言したからには、やってみようと思う気持ちなることが大事なのだが、それを予言的と言っているわけだ。

例えば、額田王の有名和歌。額田王は王となっているが女性で天皇の妻とされるが当時は一夫多妻だから歌人としての妻みたいな役割だったのだろう。

熟田津の船乗せむと月待てば潮もかなひぬ今はこぎ出でな  額田王

『万葉集・巻一・八』

『万葉集』が歌謡と区別されるのは、個人名の元に歌が詠まれるからだ。代詠であってもそれは天皇の個人名とされる。役割としての天皇は、個人名はあまり関係ないはずだ。昭和天皇と平成天皇とか象徴名で通用するのだが、『万葉集』という歌集では署名を表している。天皇の名で詠むのは巫女的(かつての権力機構)な流れであった。しかし、最も偉大な歌人といわれるのが人麻呂が天皇の歌以外に挽歌として人麻呂個人の歌を歌ったのだ。

『万葉集』ではそうした「われ」の出てくる歌が後の勅撰集である『古今集』や『新古今集』よりも多いという。それは「われ」を歌うことへの意識化が行われた先駆者たち(人麻呂や万葉の代表的な歌人たち)、例えば人麻呂の偉大さはそういした「われ」を歌った改革者としてあるのではないか?それまでは王のためのお抱え歌人という立場だったのだ。

『万葉集』はそうした個人が表れてくる歌集でもある。そして『古今集』からは、歌は貴族の遊戯的なゲームとなっていく。それは相聞歌でもそうなのだが、駆引きという歌のゲームとして感情を朗々と歌い上げるよりも技術として、襖絵や自然の情景に託す歌が多くなるのだ。そこで再び「私」は歌の背後に隠れることになる。

正岡子規が近代短歌で目指したのは小手先にレトリックよりも感情を朗々と歌い上げる『万葉調』だった。それは日本に近代化がもたらされると共に「自我」というものがもたらされたからだという。しかし子規は写生という概念によって日本的な「私性」を背後に隠すことをした。もう一つの短歌の流れとしてロマン主義的な与謝野鉄幹らの「明星」派がある。これも近代文学としてヨーロッパ的なものを輸入(翻訳調)していた。それは近代の和歌の革新運動が「和する形式」からの脱却をはかったのである。

『近代短歌における「私」の変容』松山巌、『近年百年の「わたし」』鈴木貞美

永田和宏と後半は重なるのだが、こちらは近代短歌に特化した「私性」の変容。

近代で重要なのは与謝野鉄幹だという。短歌以外の人は正岡子規の方が真っ先にでてくるのは、俳句の改革者でそのイメージが短歌でも大きいのからか。この二人は個人というより「明星」「アララギ」という短歌2大派閥として見ていくと面白い。

まず「明星」の与謝野鉄幹だが短歌世界では、正岡子規よりも最初に近代化の短歌を取り入れたのが与謝野鉄幹ということになっている。それは彼の短歌がそれに相応しいとされる代表作があるのだった。

われ男の子意気の子名の子つるぎの子詩の子恋の子あゝもだえの子  与謝野鉄幹(「清狂」)

『短歌の私、日本の私』坪内稔典編

上の句で日本における男子の精神性を述べ、下の句では「われ」の実際(現実)を述べる。それが明星の浪漫主義的な「私性」短歌の始まりだった。この精神性が日露戦争で国家主義的に語られていくのは、戦時の国威礼賛にも繋がっていく。

面白いのはその鉄幹に共鳴した与謝野晶子の方が現代短歌では取り上げられるのは、彼女の女性の性の詠んだ先駆者であったからなのだ。彼女の初期作は浪漫主義的に精神の高揚と感動を女性性の中で歌い上げる。

われと燃え情歌環(じょうかたまき)に身を捲きぬ心はいづら行方知らずも  与謝野晶子(『舞姫』)

『短歌の私、日本の私』坪内稔典編

鉄幹と晶子の違いは彼女の代表作で伺われるだろう。

やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君

与謝野晶子『乱れ髪』

同じ浪漫主義でも鉄幹の精神性と晶子の精神性の違いは明確である。

そして与謝野晶子の短歌は女子ばかりではなく、センチメンタル啄木にも影響を与えた。面白いのはこの時代短歌はお嬢さんの教養科目として、先進的な子女を引き付けたことである。和歌が女性の嗜みとして「平安女流文学」の「たおやめぶり」礼賛が盛んになるが、大正の女学生たちは豈図らんや与謝野晶子のような短歌世界に同調するかのように先生との禁じられた恋に走るのだった。その中で樋口一葉の学んだ中島歌子の私塾「萩の舎」などが有名になる。

女性の短歌(文学)がそうしたカルチャーセンターのような私塾から花開くのは、今の時代に重なるところがあるような。そうなんだ。短歌は文学に近づいて行くのだった。

日露戦争は高揚期でもあったが、その後は厭世的な気分も広げていく。それが白秋や啄木のセンチメンタルな短歌を生み出していく。今の状況と似ているのかもしれない。女子たちは日常生活でキャピキャピなのだが、男子のオタクは沈みながらセンチメンタル化していく。この系譜が与謝野晶子から俵万智へと石川啄木から穂村弘へと受け継がれた流れかもしれない。

一方正岡子規率いる「アララギ」は精神性を自然に求めていく。そこでは写生は、浪漫主義を排し「なまな(わたくし)のうたう単純な私性の文学」という短歌観が成立するのだ。

それは日露戦争後にメランコリーに沈んでいく「明星」派に対して、自然礼賛の「アララギ」派の台頭はセンチメンタルに沈んでいく短歌よりも喪失ぎみの男子を再び奮い立たせたのだ。そこに斎藤茂吉や伊藤左千夫門下の長塚節らは師弟関係の文学観を再び取り戻すのだ。

関東大震災による壊滅状態(大正の終焉)は、もはや恋愛云々の短歌よりも、ふたたび国威発揚を生み出していくの自然の流れだったのか?今の時代とも似ているのかもしれない。

くらがりの中におちいる罪ふかき世紀にゐたる吾もひとりぞ  斎藤茂吉『白き山』

短歌の私、日本の私』坪内稔典編

その時代は学究という短歌の模索だった。この時代の歌人は閉じこもり型のように思える。その一方で啄木のセンチメンタル短歌を継承するプロレタリア短歌も生まれていくのだが、支那事変後は弾圧の波がやってくる。

そして戦意高揚歌一色になり、敗戦後はその反省から反戦一色の短歌と焼け野原から生まれた新たな前衛短歌が対峙していくのだった。

「与謝野晶子から俵万智へ──乳房は誰のものだったか」金井景子

『啄木から寺山修司へ』木股知史

啄木の『一握の砂』の最初の一首は題詠であり、東海の海辺で作られたわけでもなかった。

東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる。

『一握の砂』

作歌の時点では、センチメンタルな感傷を歌ったものではなくフィクションとして即興的に作られた歌なのである。なおこの「東海」は狭い範囲の東海地方ではなく、日本の海の東海である。大きな情景から小さな世界へという構造がしっかり取り込まれている。このときの題詠が「蟹」であったから唐突に「蟹」が出てくるがそれも見事に折り込まれている。

つまりこの「われ」は啄木自身ではなく想像上の「われ」だったのだ。そのフィクション上の「われ」をさらに意識的に取り入れたのが寺山修司だ。彼の母の短歌は現実の母ではないし姉も想像上の姉だった。寺山修司の「われ」は演劇的な「わたし」であり、そのキッチュな表現は通俗性を歌ったものだった。

石川啄木の『一握の砂』における連作は、一つ一つは明確な情景だが、それを繋げていくことによって映像的な表現を獲得していく。最初の「砂」にまつわる連作は、最終的には砂に言葉を書き帰宅することで物語を閉じていく。一連の動作のクローズアップを通じて映像的に物語的に処理させているのだ。

啄木はもともと短歌よりも小説を書きたかったという。その書けずにいる煩悶を短歌による感情表現の噴出によって一気に歌い上げたと言われる。その後の編集作業によって『一握の砂』という啄木物語が形成されたのだ。その時の砂は啄木の言葉そのものとして、砂時計の砂のように落ちて、一つづつ送られていく映画のフィルムのコマなのだ。

大という字を百あまり
砂に書き
死ぬことをやめて帰り来きたれり

石川啄木『一握の砂』

寺山修司が啄木から受けた影響は、架空の「われ」という世界の構築。それは物語として歌を作るという共通点を持っている。しかし、その「われ」は虚構性であっても作家の分身のように「わたし」は存在しているのだ。強烈すぎるぐらいに。


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