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映画『ドライブ・マイ・カー』から読んでみた

『ワーニャ伯父さん/三人姉妹』チェーホフ (著), 浦 雅春 (翻訳) (光文社古典新訳文庫)

若い姪と二人、都会暮らしの教授に仕送りしてきた生活。だが教授は……。棒に振った人生への後悔の念にさいなまれる「ワーニャ伯父さん」。モスクワへの帰郷を夢見ながら、次第に出口のない現実に追い込まれていく「三人姉妹」。生きていくことの悲劇を描いたチェーホフの傑作戯曲二編。すれ違う思惑のなかで、必死に呼びかけ合う人々の姿を、極限にまで切りつめたことばで浮かび上がらせる待望の新訳。

『ワーニャ伯父さん』

映画『ドライブ・マイ・カー』を観て、チェーホフの『ワーニャ伯父さん』が読みたくなりました。

原作ではソーニャは優しい子だけど善人でもない。ワーニャと繋がっている部分があると思うのだ。闇の部分で。『ドライブ・マイ・カー』の演劇部分のソーニャは聾唖者でソーニャの結婚できない面のある部分隠してしまった。

ソーニャはブスだったのだ(美人ではないという言い方もあるが)。義理の母エレーナは、美人で年老いた大学教授の妻となった。美人であることが悪魔的とされて、この家(地主階級)を乱す原因とされていた。ソーニャはその対立軸で天使となるのだが、それはワーニャが死ねないからだ。

それは『ドライブ・マイ・カー』だと代行ドライバーの渡利みさきの方だ。彼女には母親の虐待があった。醜い愛されない娘。だから演劇の聾唖者よりもこっちの方がソーニャに近い。彼女に善意はないけど家福との共感はある。終わりなき日常を耐えながら生き続けること。それは日々の仕事をこなしていくこと。そこにチェーホフとの共通点がある。しかしチェーホフには、あの世に光の世界を見る希望が信仰としてある。

根本的な原因は貴族社会から革命社会への移行があると思うのだが、文学的に見るとトルストイやドストエフスキーやツルゲーネフの後のすべてが起きてしまった後の衰退していくしかないこの世界の運命。カタストロフィー後の日常を生き続けなければならない余生。終わりなき日常なのかな?敗北者の日常。

ワーニャは義理の母エレーナに言い寄る。しかし無碍もなく断られる。それは医者であるアーストロフに思いを寄せて拒否されるソーニャと一緒なのだ。エレーナとアーストロフの情事(これはワーニャの勘違いなのだが)は、この家を崩壊させる原因だった。部外者がやって来くること。

アーストロフはある種の理想主義者として語られる。今で言うエコロジー思想の持ち主。しかし、エレーナに対する自然の欲望は抑え難く、この家では禍をもたらす一因の一つなのだが、治癒する先生でもある矛盾が語られる。ある種の薬が劇薬にもなれば良薬にもなるということなのか?ワーニャにモルヒネを調合するというのは、その一例なのかもしれない。理想を語る政治家がスキャンダルで落ちていくというのはあるが。俗物だったということなのか?

ディスコミュニケーションだけど繋がっている関係性。『ドライブ・マイ。カー』ならばドライバーということなのだが、それが最後にドライブになるあり方。なんだろう。みさきとの道行き。ほんとうはここで駆け落ちだったら青春なんだけど、家服は、芝居があるから死ねない。高槻との違いは、そこなんだ。劇団の責任があるから?

ワーニャは負債の責任がある。いやそれを仕事として引き受ける。ソーニャがいるからなのだろうか?かつては二人でやっていた無碍なる仕事も死なないための処方箋となるのだろうか?信仰という処方箋なのだろうか?

『三人姉妹』

三人姉妹だけかと思ったら間に弟がいてその悪妻が引っ掻き回す。それに客人が多くて、誰が誰だかよくわからん。三人姉妹も活字だとイメージ掴みにくい。長女が先生、次女が浮気妻、三女が生娘。エントロピー悲劇、最初は混乱状態で終盤になると目が揃う。悲劇の目が。

チェーホフって、銃が好きだよな。必ず出てくるような。出てきたら撃たなければならない。「チェーホフの銃」という演劇に於ける格言。貴族社会の終焉を描いているのだろうけど、働かなければならないという強迫観念。嫁が、年寄の使用人を役立たずだから追い出せという。資本家の労働の概念。

イリーナ「ポエジーも思想もない労働なんて.........」

光文社文庫では登場人物の栞をダウンロードできるそうです。これ便利かもしれない。電子書籍はどう使うのか?という問題もあるけど。手元に置く。




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