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宇野浩二は、やはり「小説の鬼」だった

『思い川・枯木のある風景・蔵の中』宇野浩二 (講談社文芸文庫)

芸妓村上八重と著者との30年にも及ぶ恋愛を題材に小説家牧と芸者三重次とが互いの人生の浮き沈みを越えて真摯な心を通わせ合った長い歳月の愛を独得の語りくちで描いた戦後の代表作・読売文学賞受賞「思い川」、なじみの質屋の蔵の中で質種の着物の虫干しをしながら着物に纏わる女たちの思い出に耽る男の話・出世作「蔵の中」、他に「枯木のある風景」の3篇を収録。

「思い川」

最初に出ているから処女作だと思ったら晩年の作品だった。水上勉に口述筆記させたのだという。芸者三重次との30年に渡るプラトニック・ラブと言われているが、それは綺麗事だと思う。まあ、良く言えば八重(彼女がモデルとなった芸妓)に書いたラブレター小説と言えばいいのか?

関東大震災から戦後まで。歴史小説としての情景描写は希薄で、あくまでも恋愛(ファンタジー)小説になっている。これほど男に惚れてしまう女がいるのだろうか?と考えてしまう。

当時の小説家は今で言う売れっ子ミュージシャンのような存在なのだ。例えばの話、そのミュージシャンとキャバ嬢が肉体関係なしに、精神的繋がり(プラトニック)で愛し(ラブ)合っていた小説といえるのかもしれない。いま、映画にするなら、そのぐらい翻案されなきゃ、ヒットしないと思うけど。小説も今では読まれないから、宇野浩二、誰?となってしまう。「小説の鬼」ですよ!

宇野浩二は梅毒で頭をやられて、芥川竜之介や斎藤茂吉の世話になっていた。芥川が見舞いしたときに、「この悪鬼がいなくなると小説が書けなくなる」と言ったという。やがて回復するのだが再入院した時に芥川の方が自殺してしまった。この作品の中でも有川として出てくる。入院していたために葬儀も告別式も出られなかった(医者に止められた)。

それが38歳の時で、芥川竜之介は35歳だった。それから宇野浩二は70歳まで生きたんだから、人間何があるかわからん。そうして芥川のこともいろいろ書いていた。

芥川竜之介とのエピソードで、芥川(小説では有川)が宇野浩二(小説では牧)に書き続けなければだめだと励ます。文芸誌に幾つ連載するとか、いま何を書いているとか。そして、芥川は約束通り(このへんの几帳面さ)小説を文芸誌に書き上げたが宇野浩二は書けなかった。そして、芥川の死後に書いたのが傑作と言われる『枯木のある風景』なのだ。

ひとまずここでは『思い川』に戻る。そうした芥川との文学に対する約束があった。だから、牧は三重次に対して、1番(大切なもの)が文学と言ってのける。恋愛はその種に過ぎない。さらに、2番が母なのだ。

その後に、母の療養中の温泉に三重次を呼び出す。それが別れになる。そして置き土産として渡したのが、三重次と祖母の童話だった。三重次は両親が早く亡くなって、祖父母に育てられた。当時の宇野浩二は小説をなかなか書けないでいたので、童話ならと言って、三重次の話を童話に仕立てた。童話の叙情性に訴えたのだ。それは、三重次に家父長制という確個たる制度があることを知らしめた。嫁には勝てると思っていた三重次が母に負ける。

そして、決定的なのは、三重次が別れるにあたって、交換日記を要求した。三重次は恋愛小説好きの文学少女だった。女学生かよと思ったのだが、それは交換日記さえも小説に活かす為の宇野浩二の策略だった。この小説では、三重(芸者を辞めて三重になる)の作家先生である牧への日記しか出てこない。一方通行の愛の告白。作家先生の讃歌しかないのです。そうして文学少女を喰っていて、小説を書く鬼です。「小説の鬼」がここにいました。

ちょうど『思い川』を読んでいる時にNHKBS「アナザーストーリーズ 『阿部定事件 〜昭和を生きた妖婦の素顔〜』」を見ました。時代が重なります。阿部サダ事件が騒がれたのは2.26事件で首謀者の死刑があったから、その目眩ましにスキャンダラスな事件をニュースとしたのだとありました。今でも政治上の汚点があると芸能人スキャンダルが不思議に出てくる。阿部サダの反動としての、芸者とのプラトニック・ラブを描いたのだとするならば、なかなかの策士です。

肉体を求めながらプラトニックにならざる得ない恋愛小説好きの芸者の愛を成就するならば、作家先生のおちんちんを切ってやれば成就できたのかもしれないです。まあ作家先生は小説書けなくなるけど。いま翻案するならば、そのぐらいの小説じゃなきゃ受け入れられないでしょう。

「枯木のある風景」

「枯木のある風景」は、芥川龍之介の死後に書かれたとすれば、ここで描かれる古泉圭造は、実在した「枯木のある風景」という遺作を描いた小出楢重がモデルであるという一般的な解釈が成り立つ。それは二人の画家の関係性主人公の島木新吉と古泉圭造は、宇野浩二と芥川龍之介に対置されると考えれば古泉圭造は芥川龍之介に近づく。

小出楢重と宇野浩二の「枯木のある風景」 https://blog.goo.ne.jp/h-art_2005/e/cb7e57535031874ba5134b3d51070673 #gooblog

実際に絵があるので見てもらいたいのだが、高圧線に腰掛けているシルクハットを被った人物が描かれている。その描写を宇野浩二は会話文で表現している。

とにかく、そんな抽象的な理屈は別として、僕は、その絵を見た時、頭から水を浴びせられたような、ぞオッとした感じがした。それは、もう、凄いとか、妖気とか、いうことを通り越して、正に『鬼気人にせまる』という感じがしたなア

そんな『鬼気人にせまる』という絵で思い出すのが芥川龍之介『地獄変』。まあ、地獄の業火と芭蕉風では趣が違うが、業火の跡が枯野と思えば納得が行く(強引すぎか?)。さらに古泉は、もう一枚のデッサンを残していた。島木はむしろこちらの方をより傑作だとするのだ。30号の油絵の大作の下絵『裸婦写生画』。

『裸婦写生画』は雑多とした風景を覆ってしまう雪景色に裸婦、そしてその前に丸太。想像するだけでも楽しい。芭蕉風とは俳句でワビ・サビなのだが、ここでもう一つ「二物衝撃」を言っているのである。それがシュールな画風を生み出す。

古泉の自殺は、神経症的な部分もあったが家庭に収まってしまった為に売るための絵を描かねばならなかった。それは元絵描きである妻の意向でもって、注文されるのである。その絵にも手抜きをすることはなく、同時に自分が描きたい大作も準備していた。しかしながら彼の身体は耐えられなかった。

そこに島木の芸術と家庭という二物衝動があるのだ。それは宇野浩二の文学に対する決意でもあり、「鬼」となることだった。

「蔵の中」

後藤明生『小説―いかに読み、いかに書くか』で「文学の鬼」と言われた宇野浩二『蔵の中』を紹介していたので読もうと思ったのだ。それが、2020年だった。

後藤によると『蔵の中』の書き出しで、いきなり冒頭に出てくる「そして」は、始まりであり、同時に終わりであり、そして、また循環していく始まりでもある。尻尾をくわえた宇宙蛇(ウロボロス)の迷宮ということなのだ。

わかりにくいと思う。宇野浩二の饒舌体を阿弥陀籤(アミダクジ)方式でどこに辿り着くかわからないが完璧な円ではなく、楕円方式、ずらされながら円を描こうとしても楕円になっていくという笑い。それは、ゴーゴリ『外套』から宇野浩二が学んだ「笑い」の本質。

ゴーゴリが「外套」を新調する主人公であり、『蔵の中』で蒲団を新調する主人公はゴーゴリの方法を取り入れたとする。ゴーゴリと宇野浩二の笑いの違いついて、何者かによって「外套」を奪われ亡霊になってしまった主人公と、質草として着物を「蔵の中」に預けて、生き続ける主人公。

近松秋江がモデルとされる。


小説を書くために「蔵の中」に生活必需品を預けてまで、生き延びようとする人物なのである。それも中年作家は「蒲団」を質草にして、女性遍歴を繰り返す。アミダクジ式迷路的な語りで先延ばし先延ばしで生き(書き)続ける楕円生活。蟻地獄生活を楽しめるのも技である。

芥川龍之介『藪の中』と宇野浩二『蔵の中』を比べてみると面白い。



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