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暗雲が垂れ込める鯉のぼりかな

出遅れた。身体の調子が悪いのだ。死ぬのかなと気弱になるほどである。今は普通なんで、波があるんだよな。気分の波か人生の波か。

昨日は図書館に行って返却本三冊に借入三冊。十冊上限だから、他に借りたい本は諦めた。どうしてこんなに読書しているのか疑問に思うのだが、今更成りたい者があるわけでなしに、単なる暇つぶしなんだろうか?

読書。『白鯨』なんて読んでいると特にそんな感じがしてくる。白鯨の何が人生を潤すのか。鯨油というものは今はほとんど手に入らないだろう。抹香鯨の香水とか。龍涎香とか云うのだが、その文学的香りかな。『源氏物語』もそんな感じで読んでいるのか。昨日一番読み進めてたのは今野勉『宮沢賢治の真実』だった。ただこの「真実」という言い方は「事実」は一つだが「真実」はそれを語る人の数だけあるということだ。これは今野勉が思う「真実」であって、宮沢賢治の「事実」ではないかもしれない。

すくなくともこういう作家論は作品論に必要ないわけで感じたまま読めばいいのだが、そういう噂に耳を傾けてしまうのが読者だった。宮沢賢治の純粋性を思えば『春と修羅』は妹の追悼詩なんだと思うが、教団の要請(国柱会)や愛人(同性愛)のルサンチマンがあったのかもしれなかった。

今読んでいる本で一番面白いのは馬場あき子編集『短歌と日本人 3 韻律から短歌の本質を問う 』短歌批評のシリーズ本なんだが、いろいろ学ぶべきことが多い。短歌や俳句はまずリズムだからな。そこがよくわからない人には有益な本なのだと思う。今日の短歌はそれを踏まえて分かち書きにする。その前に今日の一句だ。俳句だと難なく出てくるのだ。

暗雲が垂れ込める鯉のぼりかな  宿仮

句跨りの一句。これを短歌的にするのに、短歌だと一行のリズムにするのが難しくなるので、分かち書きにする。

暗雲が垂れこめる日の
鯉のぼり
バラバラになり
我は吹き流し

まあ、短歌の形にはなっているな。これは啄木方式。リズムの区切りが明確になる。一行にすると難しい。

暗雲が垂れこめる日の鯉のぼりバラバラになり我は吹き流し

そうでもないか?作りやすいのは分かち書きだった。

音楽の追伸。「ジャズ・トゥナイト」でホレス・パーラン『アス・スリー』を紹介していたのだが、ホレス・パーランというマイナーなピアニストだけに思入れがあったのだ。「ラメント・フォー・ブッカー・アヴィン」を聴きたくなった。


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