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ファン・ジョンウンは「キモチワルイ」とつぶやく

『ディディの傘』ファン・ジョンウン, 斎藤真理子訳

死と破壊、そして革命。
人々は今日をどのように記憶するのか。
「セウォル号沈没事故」「キャンドル革命」という韓国で起きた社会的激変を背景に、人が人として生きることの意味を問う最新作。
多くの人命を奪った「セウォル号沈没事故」、現職大統領を罷免に追い込んだ「キャンドル革命」という社会的激変を背景にした連作小説。

孤立し、閉塞感が強まる日常の中で、人はいかに連帯し、突破していくのか?
行く先に真の〈革命〉はもたらされるのか?
私たちが望む未来とは?
——人は誰もが唯一無二の存在という事実をあらためて突きつけていく。
デビューから15年。たくさんの読者を獲得すると同時に、文壇の確固たる支持を受け、名実ともに韓国を代表する作家となったファン・ジョンウンが放つ、衝撃の最新作。「d」と「何も言う必要がない」の2作品を収録。
2019年〈小説家50人が選ぶ“今年の小説”〉第1位に選出。
5・18文学賞、第34回萬海文学賞受賞作。

【目次】

・d
・何も言う必要がない
・あとがき
・日本の読者のみなさんへ
・訳者解説

dとddという仮名の登場人物の話が語られる。それが本のタイトル『ディディの傘』ということなんだが、この二人以外は名前が表記されていて、二人だけがぼんやりしたあやふやな存在感みたいなことを書いている作品なのである。ただddは事故死したのだった。それはあまり詳しく書かれていないのだがバスから放り出されてというようにと。その関連する事故として「セウォル号沈没事故」が背景としてあり、より絶望を感じている一人取り残されたdはddが残したノイズ音楽(ヒップホップか?)を聴いているのである。その絶望。

パク・チェベはすぐに世界が滅びそうなことを言っていたが、dには疑わしかった。滅びるだと?
滅びるものか。
ずっと続くのだ。もはや美しくもなく正直でもない、生が。そこに滅びさえもない………ただ赤裸々なままに続いていくのみ。

ファン・ジョンウン, 斎藤真理子訳『ディディの傘』

何も言う必要がない

その解題は次の『何も言う必要がない』にあるように思える。韓国の民主化闘争がちょうど日本の学生運動と同じように、夏のソウル・オリンピック(1988)から冬の平昌オリンピック(2018)、日本だと東京オリンピック(1963)から札幌オリンピック(1972)なのだ。村上春樹が『1973年のピンボール』を書いたしらけ世代といわれるように、ファン・ジョンウンも諦念があったように思える。ただその傷跡は男である村上春樹とは違い女であるトラウマ(性的嫌がらせ)があった分トラウマがあるのだった。

そこから書かねばならなかったファン・ジョンウンの問題はフェミニズム的テーマも含んでいくのだ。それが同性愛の姉(小説家ファン・ジョンウンの分身か?)と子供がいる妹との対立点として『何も言う必要がない』が書かれたのだと思う。活動家である姉にしてみれば、妹の母と同じ世代の思考が理解できないのだが、子供という守るべき存在がある妹は姉のように決死の覚悟で革命など出来ないのだ。その中和として同棲相手のソ・スギョンがいる。それぞれの生き方が違うのだが同じ世界を共有している。

作家である私はバルト『小説の準備』の言葉で生きている。

生きるとは私たちより前に存在していた文章(本)から生の形を受け取ること

ロラン・バルト『小説の準備』

それが様々の作家の読書体験としてあるのだが、目が悪くなったことで今まで文字で書かれた言葉が「墨字」だと気がつく。それは現実の声の世界とは違うのだ。現実は暴力の世界が支配している。それは沈黙の子供(妹の子供)がいる世界でもあるのだ。そのことに気がついたときに子供に向ける視線は明るいものになっていく。その一つが「セウォル号沈没事故」のあとの「キャンドル革命」のあり方が作家に死なない小説を書きたいと思わせたのだ。現実には世界は変わってないのだけど。

また絶望世代として日本のアニメが出てくるのが(例えばエヴァとか)同じ問題を共有しているのだと理解出来た。そして村上春樹の僕はシンジのように泣くが、ファン・ジョンウンの女たちは「キモチワルイ」とアスカのようにつぶやくのだった。


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