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光源氏はかくも美しきダークサイドの王なのか?

『窯変 源氏物語〈5〉 蓬生 関屋絵合 松風 薄雲』橋本治 (中公文庫)

横文字由来の片仮名言葉を使わず心理ドラマを書くのは辛い作業だ。でもこれが今一番新鮮な日本語ではないかと自負している。(蓬生/関屋/絵合/松風/薄雲)

各帖がページ数以上に長く感じるのは光源氏のモノローグがどこまでも問いのなかに彷徨っているからだろうか?「蓬生」は待つだけの末摘花が姫として宮廷に上がっていくファンタジーとして面白い。続く「関屋」「絵合」ではぐっと明るい調子になっていく。「関屋」では空蝉よりも小君の不服従に腹を立てる。「絵合」がこんなにも明るく感じられたのはそれまでの経緯があったからだろうか?「松風」は再び待つ女と母でありながら愛人である悲しみ。光源氏は母たちをどん底に落とす悪魔大王なのかと思うほど酷い。

蓬生

カルチャーラジオ「文学の世界 源氏物語の魅力」で末摘花は夕顔の形代(かたしろ)というのが面白い。『源氏物語』は形代の物語で、光源氏が求めていたのは桐壺の更衣である母の面影なのだ(実際は幼い時に死んだので面影さえもイメージでしかないのだがそれが理想の女になってしまう)。そして、その面影があると噂される藤壺と恋に堕ちる(光源氏は母の面影も記憶に無いので藤壺で母のイメージと愛のイメージを知る)。しかし、彼女は帝(父)の妻だった。だから、その形代(身代わりに)いろいろな女に手を出していくのだ。夕顔は身持ちの固い貴族ではなく遊女的な気楽さを光源氏にもたらしたという。それが突然亡くなってしまったので、二匹目の泥鰌を狙ったのだという。

末摘花は、スピンオフ的な話でメインではないのだが、メインストーリーの息抜き的な話として膨らんでいく。最初に登場したときよりも「蓬生」の末摘花に魅力を感じるのはただ王子様を信じて待つ姫の話だろうか?それまでは喜劇的に描かれていたのだが、ここではひたすら待つ女だった。それが今も受ける話なのだろうか。

絵合

『窯変 源氏物語』でも一番明るく楽しい章だろうか?前半は病身の御息所から娘を託されるのだが、そこはけっこう重い話。

六条御息所が亡くなるのだが、その前に娘を源氏に託すのだが、男に近づけるなと。守れということなんだが。光源氏に託すことがそもそも間違いなのだが、六条御息所は後ろ盾もないので、偉くなった光源氏に娘の後ろ盾を頼むしかないのだった。その駆け引きが、六条御息所だから怨念の人だからちょっとホラーっぽいんだよな。六条御息所を不幸のどん底に落としたのが光源氏だから、そこが面白い。娘の元斎宮も母親譲りの性格を引き継いでいるから、光源氏は母親を重ねてしまいようよう手出しは出来ないなと思ってしまうのだった。それでも手を出すのが光源氏なのだが。

そんな重い話から一転して、冷泉帝の妻になった秋好中宮と弘徽殿女御(これは人の名前ではなく皇妃の名称だった。『源氏物語』の名前はそうした役所で呼ばれるから混乱する)の対立なのだが、弘徽殿女御は頭の中将の娘であり、実質光源氏の娘である秋好中宮は冷泉帝よりも年上なので、まだ幼い冷泉帝は同い年の弘徽殿女御の方と会っている方が楽しいのだ。しかし、秋好中宮が絵を描いたりするとそれに興味を示し近づきになる。

それで権中納言(頭の中将)は娘のために画家たちを集めて絵を描かせて天皇の気を引こうするのである。そして、それは女房たちも巻き込んでの「絵合」というゲーム性を帯びていく。それで昔物語の絵などを取り出して議論するのである。その議論は相手の絵よりも自分たちの絵の方がどんなに素晴らしいか批評合戦になるのだった。最初に取り上げられたのが弘徽殿女御方は『竹取物語』で秋好中宮は『うつほ物語』なのだが、紫式部がストーリー展開が上手いと思うのは『うつほ物語』で古物語を意識させて、次の帖ではそこでポイントとなる琴の継承という話を生かしているからだ。

勝負はなかなか付かないのだけど、光源氏が「須磨」で描いた絵を出して決着が付く。その判者が藤壺(尼入道になっていた)ということで、その絵はむしろ藤壺に見せたかったということなのだ。苦難の時代を乗り越えて今宮廷の中心にいる光源氏であった。

松風

待つ女は六条御息所だけではなく明石の君もそうであった。御息所と明石の君は娘の母であるという共通点を持つ。松風は明石の君の母(尼になっている)と明石の入道とのやり取りもあって面白い。明石の入道は道化師的でせっかく娘を宮廷に入れるように育てながら自身は明石に留まらなければならず、そのために明石の尼と明石の姫(子供)とも別れなければならない。ここはけっこう情感溢れるように描かれているのは、光源氏のダークさがないからだろうか?それまで尼になっても疎ましいと思っていた夫が、いざ永遠の別れとなると感情も乱れるのだった。また、情感は和歌で詠われるから余計にそのように感じるのかもしれない。

(明石の入道)
行く先を遥かに祈る別れ路に
  堪えぬは老の涙なりけり
(明石の尼)
諸共に都は出でし此度は
  一人野中に道に惑わん         

また母の歌と娘の歌が唱和されるシーンが印象的なのである。明石の尼の和歌はその前の夫との別離の和歌を受けて夫を山里の松(待つ)に託した和歌なのだが、母が入道とのことを歌っているのに明石の君は光源氏のことも歌っている。このへんの和歌の和する心というのが面白い。「松風」は都に出る娘と明石の残る父の心情が和歌によって表現されている。そして明石の尼の母心と明石の君の母心の揺れる思いを和歌に託しているのだった。

(明石の尼)
身を変えて一人戻れる山里に聞きしに似たる松風ぞ吹く
(明石の君)
故郷(ふるさと)に見し世の友を恋うるとて囀る言(琴)を誰が聞き分けん

光源氏は母なる面影を求めながら母になる人を落としめる物語なのかもしれない。普通はそれは禁じられた愛なのだ。そうして母親たちから恨まれていく物語でもあるのだが、光源氏の力はそれを克服していくのだった。そこに父性の物語としての母性の物語の対比が色濃く描かれているのかもしれない。 

薄雲

だが「薄曇」で不義の帝の不幸を自らの罪であり、藤壺が思っていたよりも心残りなく亡くなったのを許せないのだ。不義の子という堂々巡りは桐壺帝が答えてくれない限り解決はないのだろう。そこはあわれであるがそのあわれさをあはれ(古典的美へ)と昇華させていく物語なのかもしれない。あと僧に対する憎悪感とかそこが光源氏の抹香臭くならない派手さの良さなのかもしれない。薄曇で一番のハイライトは光源氏の闇を知る王命婦の会話と秘密を知る夜居の僧。その御経がどこまでも光源氏を追い詰める。しかしダークサイドの王はかくまでも怪しく美しく存在し続けるのである。



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