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あひる(短編小説)

かつて七十年代に開発されたこの辺り一帯の新興住宅地へ濁流のように流入したニューファミリー層たち。海外、とりわけアメリカの生活様式に憧れた彼らは、朝食にはトーストとリッターの牛乳瓶からミルクを注ぎ、休日になると近くにあるこの二面のテニスコートでこぞって汗を流した。端材のバットしか知らなかった少年が初めて手にしたヨネックスのラケットが、今も目の前のフェンスに立て掛けられている。
先月引っ越して来たばかりの私は適当なことを言いながらウォーキングへ行く。
冬なのに今日は暖かい。それでこの道路沿いの家では還暦を過ぎた男性がのそのそ出てきて愛車の手入れをしている。この家も、隣の家も、よく見るとこの通り全ての家から還暦男性たちが表に出て車を拭いたりしている。私の少し前を季節外れの日傘をさしたご婦人が犬を連れているが、その全ての家の塀の前で犬におしっこをさせている。おしっこをさせているのに家主の男はおろか日傘の婦人や連れてる犬までもがおしっこしていないような顔をしている。通りを抜けると軽い眩暈がした。私か?私がおしっこしたのか?不思議な映画のワンシーンのようで、通りを振り返る。寒さが緩むと言うが何となく辺りの空気まで緩みきっていた。

自転車に乗った二、三人連れのアジア系外国人女性を近頃よく見かける。こんな田舎にまで外国人がいるのが不思議に思える。近所のスーパーで会計に並んでいる時に、私が手にしたきな粉を見て後ろの外国人女性が「ソレハナニニ使イマスカ?」と聞いてきたことがある。砂糖塗して餅につけると美味いんだよ、と教えると彼女は飛び上がるほど喜んでいた。
女性らはベトナムから来ている者が多いようで、郊外にある大きな工場で働いているらしい。
「仕事タイヘン。デモ私マダイイデスセッケン工場ダカラ。クルマノ工場ハキツイ、ソレニイツ仕事失クナルカワカラナイ」
後れ毛の乱れも気にせず彼女は袋ラーメンを自前のカゴに詰める。どうして日本へ来たのか聞きたかったが、彼女はそう残して自転車で行ってしまった。
「セッケン工場ダカラ安心デス」


池の畔まで歩いた。ベンチに腰掛けると緩い日差しが水際で滞留しゆっくりと時間が止まっている。課外授業の園児たちが池の側へと歩いていった。引率の保育士が園児たちを集めると池の方を指差して声をかける。

「サトシくんあれなーに?」
「アヒル〜」

大きな池の真ん中でぷかぷかと白い鳥が浮かんでいる。

「ジュキナちゃんあれなーに?」
「アヒル〜」

「コウジくんあれなーに?」
「アヒル〜」

「ジュエルインマイハートちゃんあれなーに?」
「アヒル〜」

「みんなー、あれなーに?」
「アヒル〜」「アヒル〜」
「アヒル〜」「アヒル〜」
「アヒル〜」「ガチョウ〜」
「アヒル〜」「アヒル〜」
「はーいよくできましたー」

隣の老夫婦は頷きながら拍手した。
園児たちは歓声をあげながら戻っていき、老夫婦もゆっくり腰を上げるとベンチを離れた。
私は池の方をじっと見つめる。
緩みきった日差しに全てがぐにゃりと溶け始め、園児たちの「アヒル」の連呼が町内放送のように再生、逆再生される。止まっていた時計はぐるぐると反時計回りに回りやがて二十五時を指す。激しいラリーの音が聞こえる。夜のテニスコートで日焼けした少年がヨネックスのラケットを握っている。ボールを打ち抜く乾いた音。審判台の足元に置かれた瓶のコーラ。フェンスに寄りかかったボロの自転車。コートを見下ろす巨大な月の他には、誰にも知られなかった青い夜の世界。私はベンチに座ったまま目を細める。


あれほんとにあひるか?


「25O'Clock」 The Dukes of Stratosphear

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