生きることは汚いこと


過干渉の親から逃げるようにして引越しをし、今は荷物の整理をしながら部屋を片付けている。
どうにもこうにも物が多く、人が憧れる様な素敵な部屋にならないのが悲しい。ダンボールを開きながら「どうして私の持っている物はあっという間にガラクタになってしまうのだろう」という思いが出て、ふと、「生きることは汚いことなのだ」と悟った。

生きていればどうしたってゴミは出る。使っていればくたびれてくる。
物が駄目になっていくように私も同様に駄目になっていく。
生きて、時間が経てば経つ程汚くなっていくのは当然なのである。

食事も、生殖も、生きる事に関連する全ての物事は汚いのだ。
食べるという行為は他の命を奪い、ズタズタにし、口にしてグチャグチャとすり潰し胃の中でドロドロになるまで溶かす。最後には排泄物となるグロテスクな行為である。

生殖行動も男女が互いの性器を使って体液でグチャグチャになりながら致す行為である。羊水でしわくちゃになった子供が血まみれになりながら生まれてくる。文字に起こすと吐き気を催す程汚らしい行為なのだ。

しかし、上記2点は生きる事、生命を維持する事として必要不可欠な行為であり、汚らしい事であるが聖なる行為として挙げられる事が多い。

食べる事。命を頂く事。他の命を犠牲にして自らを養う尊い行為。
生殖と出産。命を生み出す事。自己の命を分け与えて他者を養う尊い行為。

最も尊いとされる行為は最もグロテスクな行為でもある。
グロテスクさ故に聖化されたのか?
それとも聖なるものはグロテスクなのだろうか?

そんな事を考えながらごちゃごちゃと散らかっている部屋を片付けている。
綺麗に片付いた部屋を夢想するが、生きている限り達成できない夢だろうと本の山を見ながら思うのである。


コーヒー豆を買いたいです。