生き物の姿で生きたい。愛されたい。


人に好かれる時、私は部品になったような気持ちになる。
たまたま相手のニーズに合った部品になっただけであって、
私という存在が承認された訳ではないと。


私という存在と私の所有している物を同一視していないのが問題なのかもしれない。
存在は自然の姿であり混沌である。
所有している物は加工されてできた人工物であり、部品である。
能力や仕事ぶりという物が評価されるという事は部品である私が承認されただけであり、混沌とした私が承認された訳ではない。


存在の承認に対する渇望が故に、部品としての承認に対する興味が薄いのかもしれない。
私が心から欲するのは存在に対する承認である。
部品としての承認ではない。


だから褒められても嬉しいと感じない。
私が求めているものではないから。
「すごいね」と言われる度に「いい部品だ」と言われている気がする。
社会に、ニーズに、既成概念にぴったり合ったいい部品となった私。
私ではない私。
好かれても嬉しくない。
それは命のない私だから。


存在である私は奔放で自分勝手で混沌、
好きと嫌い、死と生の意識の中間。
子供になったり大人になったり、理性と本能のごった煮。
私でさえも理解できない私。
自分でさえも把握しきれない私を「好きだ」と言う人がいたら、
きっとその人はとても変な人だ。


でも、心の底ではその、変な人を求めている。
だから、私は部品の私を辞めて混沌の私にならなければならない。
反社会的で非常識、自分勝手でわがまま、
怠け者で面倒くさがりでマイペース、
こだわりも気も強い私を出して、
それでも「いいよ」って言ってくれる人を探しに行かなくてはいけない。


私は部品じゃない。
誰かの理想でもない。
誰かの人生でもない。


私は私だ。


「部品となって事を成せ」
「よく働く機械となれ」
「効率よく動け」
という主張がされる世界で
一体何処までやれるだろうか。


生身の、生き物の姿で。

コーヒー豆を買いたいです。