ネオニートあらいぐま
徒然なるままに海に溺れる。拡大する思考をなぞり吐き出す。とりとめのないまま
価値観というものは物質の状態によく似ている。 圧力をかけるほどに固くなり、結晶化し、美しくなり、そして変化を拒むようになる。 いつまでも無色透明でいられたら良い、そしたらきっと日常には発見が溢れ、日々が楽しいままでいられる。 価値観には熱量を加え気化させる、そんなことを目指して。
誰が言っていたか忘れてしまったが、どうやら知識を詰め込みすぎると自分で考えることができなくなるらしい。 確かに私の思考は鈍っているのかもしれない。 noteに限ったことではないのだが、私自身の昔の文章を読み返すと感心することがある。どうにもありきたりでどこかで聞いたことのある言葉ばかりではあるのだが、かつての私が不思議と確かにそこに存在していたような(それを不思議と曰うのもおかしなことだが)、感覚を覚えるのだ。その時の私にしか残せないような文章が確かに在ってそれをもう一度書
法規制を厳しくしても社会は良くならなくて、それは社会構造がそもそも良くないからで、でも構造をテンポ良く変えていけるような社会は民主主義には存在しなくて、デモクラシーのコストってこれのことなんだなって実感する今日この頃
これはたぶん就職活動を一通り経験していろんな情報を集めてたくさんの人と会って自分と向き合って実験して満足して大学院進学を決めた時間や知識を咀嚼した形跡。 豊に生きていくためには価値の提供が必要だと言われ続けた。私のような青二才は価値の提供なんて気にして生きたことはなかったからだろう、いまいちピンと来ていない。しかし、生きるためにお金が必要であることは知っている。生まれた時から貨幣があって、価値と貨幣がごちゃ混ぜになって、前頭葉でそのことを理解しても大脳基底核に絡まった糸が解
目の前のことに集中することがどれほど難しいだろうか。未来のことを考えると何も行動を起こせなくなるなんて言葉を聞いて、どこか腑に落ちるとともに、落ちてきた何かが途中で引っかかって少しばかり気分の悪さを感じる。目の前に何かを差し出されればそれを消費しようと躍起になれる。ただ受動的に、レールの上を走ってきた弊害か、或いは凡人たる自らの宿命か。終着点を見つけられる人間はどれほど強いのか。見つけたふりをして足掻いてるふりをしている人間とは何が違うのか。拡散していく思考をただなぞっている
人の分類なんてしようがいくらでもある。 最近話題の本でいえばギバー、マッチャー、テイカーていうふうに分類できるし、内向外向だとか司令型、法則型、理想型、注目型だとかも言われたりする。 どんな考え方でも偏見であるし、何か一つの偏見に頼ってはいけないことを忘れてしまいそうになる。 私は基本的に人付き合いが苦手なせいか、初見に会ったときにその人がどのような人なのかわからない。 友人と呼べる人なんて数えられるくらいであるし、その友人ですらどのような人なのかわからないと感じる。 わた
持つべき者は、意志があり行動を起こすことができる。 ならば、意志もなく、行動も起こせず、ここでくだらない内省をしている私は持たざる者にしかなれない。 少し変なだけでは枯れるだけなのだろう。 私はネットには比較的強いものの、SNSの話題にはついていけないような他人にあまり興味がない。 他人に興味がないというよりは流行り廃りに全く興味がないと言ったほうがいいだろうか。 話題のものを選ぶのは小説くらいだ。 もっとも、小説は多くの場合、有名作家の作品が話題となり、有名作家の作品は得
ファクトフルネスという本がたくさん売れた。 世界は本当は少しずつでも確実に良くなっていることをデータで語る本だった。 確かに世界は全体最適化へと向かっているのだろう。 それは世間一般で言う正義の基に良いことであって、そういう意味では良い方向に向かっている。 しかしながら、世界ってそんな単純なことじゃない。 自立できて私的な成功を収めた余裕のある人たちの「良い」ことなんだ。 わたしみたいな自分の身すら守れない、自分の心すら隠せない人にとっての「良い」ということとは、多分だけれど
友人から彼氏からの軽いイジリが辛いという愚痴を聞いていた。 彼女は自らイジリの内容と同じようなことを自虐し、周囲を面白おかしく感じさせていたため私は意外だな、などという感想を抱く。 言葉というモノはこうも扱う人によって違ってくるのだろうか。 それとも人間の感情というモノはかくも複雑なのだろうか。 冒頭の通り、私の状況としては愚痴を聞いている真っ最中である。 彼女は人前では泣くことは滅多にないが、周囲と比べるとやはり涙脆いという範疇に収まる人間だった。 酒の席などで話を聞
誰もが一度は考えたことがあるだろう。 自分は恵まれているんだから、多少は我慢しなければならない。 特に大きな挫折経験なんてない。 ある程度のことはなんでもできたし、出来ないことは出来ないと割り切ってしまっている。 だから自分は恵まれている。 そんなことを。 渇望がない、がんばれない、そんな話をかつて書いた。 その考えは今でも変わらない。 だが、それを恵まれているという言葉で問題を先送りにし、悩みから目を逸らし、劣等感から逃避行するのはいかがなものか、と。 特に今は就職活動
Twitterを初めをするSNS、そしてブログやYouTubeでよく一部を抜粋して誤解を招くような曲解を述べている人達がいる。 彼らのような知的強奪者にならないように私も気をつけなければならない。 知的強奪者は何も近世で生まれたものではなく、ニーチェが本における知的強奪者を最悪の読者と呼んだように昔からありふれたものだった。 逆に言えば何もかもが科学的に社会的に変革した現代でさえ、知的強奪者は昔から何一つ変わっていない。 唯一違いがあるとすれば、媒体が本から新聞や評論へ、そ
本を読むごとに何か一つ得るものがある。 それを積み上げ続けていると次第に自分の中で信じるものと疑うものに境界線を引き始めていた。 当初は自分を築き上げるような錯覚に陥り、自己肯定と高揚の中で夢中になっていた。 しかしながら、今振り返ってみると積み上げて、自分を決定付け、個人へと昇華するということは停滞と衰退の先走りではないのだろうか、と。 中学生や高校生の頃、(以前の記事でも書かせていただいたことなのだが、)私は特にやりたいこともなく、渇きもなく、だらだらするような空虚
幸せってなんだろう。 最近よく考えているテーマが幸福とか幸せとかそんなとっても抽象的なものだ。 この前、望むものがない私は何を目印にすればいいのだろうか、私の燃料はなんだろうかみたいなことを書いたんだけど、それの答えの一つが幸せなんじゃないかって。 金とか名誉とか性欲とかとか、そんな欲望ももちろんあるけれども、自分の中で今ひとつ現実味がない。 正直それを求めて何になるんだって感じ。 そりゃお金があったら嬉しいし、優れた人と一緒になれると嬉しいんだろうけど、それって結局生物的
自分の首を自分で締めながら生きにくいと曰い、変に気取って孤高のフリして寂しくなって誰もわかってくれないなどという矛盾を孕んだ人間もいるらしい。 そんな人たちの気持ちも少しはわからなくもない。 私も簡単なことを勝手に難しくしてしまうような人間だから。 どうして? なんで? そんな疑問を永遠と繰り返している。 一人でいる時は考えることをやめられない。 考えていないときなんてお風呂でボーッとしている時くらいだろうか、いや、お風呂でも元気な日は考え続けているような気もする。 そん
同じ大学の同じ学科で何者かに、有名に、すごい奴になりたくて必死になっている(ように見える)友達がいる。 彼は多分だけど他の人を見下してて、資格の勉強なんて全く意味がないと思っていて、少なくとも学生時代はもっと他にできることがあるからそれを優先するべきだし他の人がなぜそうしないのかわからないと言ったり、そんな感じの人だと勝手に思っている。 もしかしたら、春休みの間に変わっているかもしれないし、現状も私の主観に歪められまくっているけれど。 でも彼のようなナニモノかになりたくてな
私は何不自由なく生きてきました。 多くの物を与えられ、多くの選択肢を用意され、しかしながら親が選択を誘導していくごく普通の家庭です。 欲しいものは誕生日に買ってもらえ、部活動に必要なものは親が勝手に世間で言うイイモノを用意して、わからないことは近くの大人が教えてくれる温室育ち。 だからこそ、満たされている。 満たされているからこそ、がんばれない。 おそらく、働かなくても親のスネをかじることができる。事実大学に行かせてもらっている。 きっと大学に行きたくても行けない人たち
自分で遊ばれていると感じた事はありませんか? 赤の他人からの無意識下の差別、両親からの正しさの押し付け、肉体的性別への直感的イメージ、ただの常識。 日々、私は世間に遊ばれているのかもしれません。 人間のクローンが開発され、ゲームの中のNPCのような扱いを受けるような世界観の映画を観ました。 他の人は何人も殺され、主人公は何度も殺されかけ、最終的にゲームの外側にたどり着く。 ゲームの製作者に向かって、 私で遊ぶな と言い放ち、自殺してしまいます。 ゲーム中のシチュエー