恵まれているという錯覚と劣等感からの逃避についての話

誰もが一度は考えたことがあるだろう。
自分は恵まれているんだから、多少は我慢しなければならない。
特に大きな挫折経験なんてない。
ある程度のことはなんでもできたし、出来ないことは出来ないと割り切ってしまっている。
だから自分は恵まれている。
そんなことを。

渇望がない、がんばれない、そんな話をかつて書いた。
その考えは今でも変わらない。
だが、それを恵まれているという言葉で問題を先送りにし、悩みから目を逸らし、劣等感から逃避行するのはいかがなものか、と。

特に今は就職活動時期だ。
このタイミングにおいて、そんな考えを持った人もいるのではないだろうか。
恵まれているし、なんでもできる。
長所も短所もあるけれど、挫折経験なんて聞かれても困る、挫折なんてしたことがない。
かくいう私もそう考えていた。
挫折なんてしたことがないのだから、過去にあった諦めたことを脚色して鮮やかな挫折経験へとプロデュースした。
もしかしたら、人はそれを挫折と言うのかもしれないが。

しかし、挫折がないなんて言って、逃げているのは自分だった。
恵まれている人だと思っていたら上には上がいる。
本当に恵まれている人は悩む間もなく渇きを埋めるか熱狂している。
かといって恵まれていない人ではない。
下を見れば、もっと貧困に喘ぐ人達もいる。
大学に来れない人だっている。
しかしながら、その人たちは楽しそうに生きている。
私は中途半端だ。

中途半端なんて言葉はすごくチープで使いたくないのだけれど、私の語彙力が追いつかない。
ただ、誰にとっても主観でいれば、主観こそが、自分自身こそが中途半端になるんだろう、と。
中途半端から抜け出すことなんて出来やしないんだろう。

恵まれているなんて思うのはもうやめた。
比較する必要なんてない。

自分こそが唯一だ。
主観を中心に広がっている世界でフラットに見るしかできないんだ。
そうしないと何も分からなくなってしまう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?