20190808 色んな種類のぎっちぎち

7月末には岐阜の恵那に、そして今週はお墓参りで長野の上田にと、普段の生活ではなかなか目に収められないほどの緑と水色を浴びた。

これは悪い意味ではなく、そういうところに行くと私はなんにも考えられなくなっちゃう。難しいことが するるるる とほどけてゆき、まあ一旦置いておいて、ぼーーーっとしたくなる。

なんでだろ。
溢れる緑や水色に囲まれてみると、あまりにも東京は情報・人・建物が多いんだな〜〜〜と改めて気づく。脳みそがぎっちぎちになったり、あれやこれや予定をいくらでも詰め込めてしまう。
わたしは東京うまれ、ほぼ東京育ち、今は東京在住、もちろん東京だいすき。そしてその、ぎっちぎちも好きではあるし、詰め込むのも自分が好きでやっているんだろうなーと思っている。

しかし詰め込みすぎた重たいバッグみたいな脳内を、なかなか自分で軽くすることも難しくなってきた日々のサイクルや自身の性格に向けて、「解放されましたよ〜今はオフですよ〜〜〜」という合図を出すには、わかりやすく身体を違う土地に、しかも景色ががらりと違う場所に移動させることをいつも必要としている気がする。

ふと、もし上田の家に移住したら、どんな歌を書くかなと考えた。
これは最近読んでいるイ・ランさんという方(韓国の方でシンガーソングライター、映像作家にコミック作家にエッセイストでもある)のエッセイでも似たようなことが書かれていたのだが、きっと作る歌が変わるだろうな、と思った。

やっぱりわたしの愛すべきぎっちぎちに囲まれているから、アライヨウコの歌はああいう言葉を選び、メロディーやコード感をまとうのかもしれない。
でも、ふとのふと、わたしがたまにしか緑に囲まれていないから開放感を感じるのかもしれないとも思う。その場所にはその場所なりのあれこれがある、閉塞感も開放感もどちらにもあると思う。それは住んでみなければわからないことだ。

たまにの滞在で感じることと、その地に腰を据えるというのは全く別のもの。

まあしかしそんなこと考えていても今の時点での答えなどなく、上田に住むのはなかなか良さそうだけど蜂が沢山いるのがまじでこわい、住んだらこわくなくなるかな……の方が重要だったりするのかもしれない。
蜂警戒マックスだったが、夜に宿泊した別所の宿の夕食、蜂の子(上田の名産?よく売っている、蜂の幼虫)入りのチーズは美味しかった。とても美味しかった。それとこれとは話が別だ。

あと、いつも驚くことが、山って遠くから見たら山だな〜〜〜なのに、よくみると木が信じられないくらい生えている。本当にすごく生えている。当たり前なのですが、今回も 木がすごい生えてるなぁ、と思った。
と書きながら、あ、山も木がぎっちぎちじゃん、と思った。うーん。でも風にそよぐからなあ、木は。そういうことなのかなぁ。


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