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小さな頃はかがみなり


 青木のおばちゃんが引っ越す段になって慌てだしたのは、甥っ子の翔がちっとも家を離れたがらなかったからだ。

 バケツで汲んだみたいな朝日がべらぼうに明るく注がれるその日に、俺と翔は畳の座敷で向かい合っていた。あちこちに閉じたダンボールが積み重なってビルを作っている。

 甥っ子は小学二年生にしてはあまりに出来た子であった。顔に丸みが少なく、するりとした輪郭にほっそりした目の線をして、男の顔をしているのだがどこか女性の気品も思わせる。

「時に翔、なぜ君はここを動かぬ」

「教えません」

「キャンディがある、しかも君の大好きなオレンジ味や」

「いりません」

「なあに、おじちゃんと話しさえしてくれればええ。なあ? 話してくれや」

「いやです」

「そうかそうか、おら!」

 バッと飛びかかって、小さい翔の胴体をキャッチする。瞬発力のない翔は逃げようとくるっと背中を向けたところで捕まってしまい、むしろ抵抗がしにくい状態になる。そこをすかさず、くすぐってやった。

「あひゃひゃひゃひゃ!!」

 ドタドタとバタ足をしながら俺の手の中で翔が回り、今度は仰向けの状態になる。その上に架橋のごとく乗っかってやり、なおさらくすぐりに力を込めてやる。翔は生理からくる全開の笑顔を惜しみなくこぼした。

 すると階下からレーザービームの声が届く。

「暴れんとってぇ!!」

 青木のおばちゃんだ。最近まで小唄の練習に足繁く通ってた甲斐もあり、二階どころか向こう三軒まで聞こえそうなほど豊かで太い声だった。

 母親の叱りに男は弱い。二人ともしおれて元の位置に戻った。

 再び向き合う。夏も終わりかけ、畳が蒸れて線香と森を混ぜたような香りがする。

「難儀なやつや」

「ナンギ、とはなんですか?」

「……面倒とか苦しい、という意味や」

「なるほど、勉強になります」

 翔が綺麗な角度で礼をした。はたから見れば道場か何かだと思われるだろう。

「おじさんの希望には沿えません」

「オレンジキャンディがあるのに?」

「僕、実はオレンジ好きじゃないんです」

「なんやと!」

 俺はショックを受けた。記憶の中の翔はゼリーにしろジュースにしろ、いつでも橙色のそれらを選んで美味しそうに食べていた。青木のおばちゃんもそれを知って、進んで買ってきてくれるのだ。

 幼い翔から聞く、初めてのウソだった。

「それに僕はもらいすぎてしまいました」

「翔?」

「これ以上は、いりません」

 うやうやしい、という言葉がこれほど似合う礼もなかった。それは免許皆伝、師匠からスピリットを受け継いだその瞬間の弟子のきらめきであった。朝日が翔の輪郭に吸いつき、自ら発光しているようである。
 俺は、いよいよ時がきたのだと思った。


 
 翔はもともと気弱でいじめられっ子だった。ちょっとでも攻めた会話をされると(女の子の話とかうんちの話とかだ)、どう返答していいかわからずにもじもじしてしまう。赤らめた頬とその様子はとてもしおらしく見えた。活発な小学生男児からしてみれば、格好の餌食になるのだ。

 憎き矢崎のせがれが一番、甥っ子をいたぶってくれた。ものを隠すは当たり前、ひどい時にはそばの由馬川から石を投げてくれる。青木のおばちゃんだって必死に庇い怒っていたが、俺の方が数倍怒り心頭だった。

 ここで出なくて誰が出る。俺は翔の前に姿を現した。

 最初の翔の驚きようは今でも覚えている。尻餅をついて、逃げ惑っていたものだ。なあに、君のおじさんだ、と話すともっと怖がられたのは言うまでもない。

 その日は仕方ないと切り上げて、翌日俺はオレンジ味のみのアメ袋を持って翔を再び訪ねた。

「君が1つ俺から何かを学ぶたびに、これを一粒あげよう」

 それが、翔の興味を引いたのは言うまでもない。
 俺はありとあらゆることを教えた。敵への威嚇の方法、いじめる心理、立ち向かうための武力。彼の年齢では到底知り得ないことを、俺は湯水のように与えてやった。

「いいか、翔。晴夫の弱点を見つけるんや。頭が悪ぃとか、そんなわかりきったことはダメやぞ」

 おどけて言ってみせると、翔は少し笑顔になった。

「いじめてくる奴ってんは、寂しくて仕方ないんや」
「晴夫にはたくさん友達がおるよ」
「それはほんもんの友達やない」
「いつも楽しそうにしとる」
「よーく観察してみるんや」
「そないしたら、じっと見やんキモいっていじめられる」
「遠くの山でも見たんや言えばいい」
「それがダメなら?」
「靴下ハンマーや」


 自分の靴下を脱いで、そこらへんにある石を突っ込んで袋状にする。それを振り回すだけで、相当な殺傷能力のある武器が出来上がる。


「ちょっとの怪我ならさせてもえぇくらいの気持ちで向かっていくんや。そんじょそこらの決意じゃ悪か。せや、一週間は外に出れなくしたる! と思っとき。顔もオニみたい怒らせてずいっと迫るんやこんな風に!」


 俺は拳を振り上げてものすごい速度で翔に迫った。彼はクワッと表情を一変させて、くるりと逃げる。だが反射が遅く、あえなく俺に捕まってしまう。その感触に驚いて彼が振り向いたところで、俺は拳を振り下ろした。

 ギュッと、固くつぶられた目が開くまでに3秒ほどかかっただろうか。

 開かれた茶色の瞳のすぐ先で、拳は止まっていた。

 俺はすっと翔の体を離し、畳に置いて身を引いた。

「ーー今の怖さを、感じさせてやりゃお前の勝ちや」

 翔は何が何だか、という気持ちだったに違いない。俺はあんぐり開いた奴の口にアメを放り込んでやった。

 カロカロとしばらく中で転がしてたかと思えば、ふと面をあげる。

「晴夫、ほくろが多いんよ」

 思い出したように翔はこぼした。

「ほう?」

「ぶつぶつとしててこん前雄太がダルメシアンみたいだな言ーたらぶんなぐられてもた」

 俺は翔の肩をポンと叩いた。

「そりゃ重要な情報や。晴夫にとってそれは殴られるくらい辛いことなんやろ」

「なして?」

「反撃っちゅうんは、同等かそれ以上の攻撃でもって返すもんなんや」

 それは初夏のことで、開いた窓からは青々茂る庭の木が風に乗って薫っていた。赤い小さな実がいくつも生っているのがわかる。

「本当にそうなんかな」

「目には目を、歯には歯を」

「知っています」

「……良か悪かは別として、世の中にはそう思いながら生きてる奴が大勢おる」

「晴夫も?」

「ああ、きっとな」

 翔はそれからしばらく考え、そして言った。

「決めました」

「何をや?」

「決着を、つけます」

 目は見据えられ、絶対に動かなかった。

 それは、優しさに裏打ちされた紛れもない強さの証なのだ。

 翔は翌日、矢崎のせがれを抱きしめて、言ってやったそうだ。「気にしなくてえぇ、大丈夫やよ」と。優しく、優しく。俺はそんなことひとつも教えなかったのに、だ。俺は心底敬服し、疼く首元を押さえた。

 泣き出した晴夫が「なんで?」と聞くと、嬉々として奴は俺のことを語った。さも誇らしげに、それが引っ越す原因になるとも知らずに。


「もらいすぎたんは俺の方や。それに、おばちゃんには借りがあるんよ」

 俺はカサカサとオレンジ飴の空袋を握った。消費期限は今日までだった。自分の部屋に残してたのをこっそり引っ張り出してきたのだ。昔の俺もオレンジが好きだった。

「庭の木、登ると川が見えるやろ」

「……」

「矢崎からひでぇいじめを受けててな、おばちゃんだけは味方だったんや。この家にいつも逃げて来てな、ふと登ってみとうて。何もない幹に足かけて上の小さな枝にたどり着く。それが一番大変や。とっかかりもなんもない。せやけど、必ずいけるって思う瞬間が来るんよ。逃しちゃあならない。掴んじまえば一息や。するりと、天辺までいけるんや。そこからの眺めだけが救いやった……朝なんか最高や。光の粒が水面で洗われてザクザクと目に入る。でも、眩しすぎたんや。……あとはお前の知る通りや。翔、お前は立派よ。かつての俺であり、俺やない」

 翔のうつむきはより深くなった。どうやら見せたくないものが流れているらしい。

「お前つこうて復讐しようとしてたんに……お前がそれを変えたんや」

 ポタポタとズボンの上にシミができた。翔はわなわな体が震えてまるで武士の男泣きだった。

「泣くやつがあるか」

「おじちゃんは迷惑な人やない!」

「自宅の庭汚されたんや、仕方あらへん」

「晴夫も薄気味悪がって、怖いこた全然なかとぉ!!」

 うああ、と顔を崩した翔が俺の体に抱きついた。よしよしと少しの間、頭を撫でてやって突然グイッと顔をあげさせる。面食らったやつの口に、オレンジの粒を放り込んでやった、赤々とした穴の向こうへ。反射で口を閉じ、その意味に気づいた翔は吐き出そうとした。俺はすかさずもう片方の手で塞ぎ、無言で茶色い瞳を覗き込む。ジタバタと最初は暴れていた。その音は階下にもしっかり響いただろう。でも俺は押さえ続けた。翔が苦しくないように、しっかりと味わえるように。一通り暴れたあと、翔はじっとし、飴を舐めはじめた。朝日は部屋を洗い、星の砂のようにきらきら瞬いている。

「さあ、行こうな」

 ダダダダダ、と音がして襖が開かれた。

「暴れるなゆーとるが!」

 おばちゃんはズカズカと畳の間に入り込んだ。うつ伏せで倒れている翔を見つけて驚いた。

「一人で何しよっと?」

「……なんでもない」

「そろそろ動く気になったね? もう車きとるよ」

「……難儀やね」

「え?」

「……いく!」


「せやせや、こんな薄気味悪い家、はよ出よう。お前が悠人の姿見た、話した言うからにこないなってんで。もうダダこねたらあかん……また冬休みなったら、帰ってこよな」


 優しいおばちゃんの声が、俺の名を呼び、翔に優しく降り、彼の手をとった。この部屋を出ていくとき、やつは残された俺を振り返ろうとしたが、すぐにやめた。


 ふと俺は部屋の鏡を見た。首元に手を当てる。

 赤々とした線がぐるりと一周していたが、それは既に癒された傷跡なのだった。


 

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