読書感想文(382)上田岳弘『太陽・惑星』


はじめに

こんにちは、笛の人です。
読んで下さってありがとうございます。

今回は読書会で紹介された本を読みました。

感想

面白かったです。
でもなんか、めちゃめちゃ独特な感じがしました。んー、感想を書くのが難しい。
読み始めてすぐは、こういう哲学的思索によって進んでいく小説を求めていた!と思ったのですが、途中から哲学的思索についてはあまり気にせずに読んでいたような気がします。

哲学者や作家たちが思いを巡らせた問いや苦悩の多くを独自に考え尽くしてきる彼には、なぜそれほどに人間を特別であるのみるのか、という議論がある。他の種に対しては増やし減らし時に改造しと好き勝手やっているにもかかわらず、自分たち人間に対してのみその傍若無人さが発揮されない。では、「自分たち」とはなんだ? 人間というカテゴリで絞るなら、例えば人種は関係ないはずだろう。余裕があれば俺を含めた黒人も「自分たち」の範疇に入れてもらえるというものだ。しかし、余裕がなくなれば「自分たち」の範囲はどんどん狭まっていき、自分の人種、自分の国、自分の家族、自分、という具合に限定されるのではないか? 普段からせっせとそういったカテゴライズをしておくのは、状況に応じて「自分たち」以外を防壁にして切り捨てるためなのだろう。人間だけを特別視するということはつまりそのような特権化、ふるい分けにつながっていくのではないか。それが大多数の人間の性向ということなのであれば、俺はその究極をいく。自分かそれ以外。人間だろうが動物だろうが植物だろうがなんだろうが関係ない。自分かそれ以外。俺はどこまでも自分自身を特別視する。

P35

これはつい最近、似たことを考えました。
私は「自分が善いと信じられることは何か」という問いについて考えた時、まず「他人の選択肢を増やすこと」というものが出てきました。次に、「他人の選択肢を減らすことは良くない」と考えました。そこで、「ただし、本人が選択肢を放棄する場合はその限りではない」と考えました。しかし、それでは悪い人が無知な人を騙して、選択肢を捨てさせようとする危険があります。その危険を少しでも減らすために、「他人の思考力を養うことは善いことである」と考えました。
しかし、しばらく経ったある日、なぜ自分は「他人」に限定したのだろうかとふの疑問に思いました。自分の選択肢を増やすこと、自分の思考力を養うことも、善いことなのではないか、と。
では、自分の選択肢を増やすことと自分の思考力を養うことは、なぜ良いことなのでしょうか。
これの答えは、結局「その方が他人の選択肢を増やしたり、他人の思考力を養うことができるから」というものに戻りました。
では、「他人」とは何か。この範囲を決めるのはとても難しいです。最初は人類という括りでした。しかし、では動物や植物は入れなくて良いのか、と思いました。
ここに、動物を入れた場合、ベジタリアン的な考えに行き着くのだろうと思います。
でも、動物の選択肢を増やすというのはとても難しいです。例えば、ニワトリに自由を許してしまうと、私は毎日卵を食べることができなくなります。私はお金が無いので、毎日の食事から卵がなくなると、恐らく栄養が足りません。肉も同様ですし、牛乳も飲めなくなります。
もう一点、人間とその他の動物で異なるのは、言語を使ったコミュニケーションを取れるかどうかという点です。人間に対しては言葉で意思を確認できる一方、その他動物にはそれが難しいと思います。
だから、動物に対しては、その動物がどうしたいのかを人間が推測する他ありません。このような関係であれば、自然と人間にとって都合の良い解釈をしてしまいます。牛さんも美味しく食べてもらえて本望だろう、というような。
これを解決するいちばん簡単な方法は、人間が光合成をできるようになることかなと思います。人間自身が、というわけではなく、そういう技術ができれば、そこからエネルギーを生み出して、生きていくことができます。そうすれば、他の動物に迷惑をかけずに済みます。
しかし、今度は動物同士の関係が気になります。仮に、人間が他の動物の自由に干渉しなくなったとして、他の動物同士を同じような関係にすることはできるでしょうか。例えば、ライオンに人工物の栄養を与え、シマウマに人間が育てた草を与えれば、ライオンとシマウマは仲良くできるでしょうか。もしかしたら仲良くできるかもしれませんが、それは生命本来の在り方を変えてしまっているようにも思われます。
しかし、生命本来の在り方とは何か、と言われるとこれまた難しいです。上の例から考えれば、人間は既に生命本来の在り方を逸脱しているようにも思われます。

ここで、本文に戻ります。
では、自分を特別視することは善いことなのでしょうか。私はこれになんとなく反対する気持ちがあります。
なぜか考えてみると、自分のことを究極的に特別視している人が横にいたら、嫌だなと思うからです。しかし、これは自分の主観なので、それで物事の良し悪しを判断するのでは、結局自分を特別視しているのと同じです。
結局自分が何を善とし、何を悪とするかは、自分にしか決められません。その根拠をどこに求めるのか、と考えた時、私は他者を含めたいと思います。これは本文で言うところの、「自分たち」にできるだけ多くの他者を含めたいということです。なぜなら、その方が多くの人が幸せになれると思うからです。自分の為だけに行動すると自分しか幸せになれませんが、自分たちの為に行動するとより多くの人が幸せになれます。
「幸せ」とは何かという問いは解決しませんが、一応「幸せ」を理想の状態であるという属性を持つものであると考えるのであれば、より多くの人が「幸せ」になる為の行動や考えは善いと考えることができます。これが、私なりの判断かなと思います。

ここで改めて本文に戻ると、この「自分たち」を人類の範囲で究極まで広げた結果が、この作品で描かれる世界であり、その世界は幸福とは言えない世界に思われます。
だから自分たちを広げるのは良くないのか、というと、私はそうでないと思います。
なぜなら、人類はまだまだ未熟だと思うからです。
確かに突き詰めるとこの作品のような世界になるという解釈もできるかもしれません。
しかし、それは現段階の人類の解釈でしかありません。
今後、人類が様々な過程を経れば、別の解釈も見出だせるかもしれません。
その為に大切なのが哲学だと思います。
この作品の中でも、一番の問題は人類の統合?を急ぎ過ぎたことではないかと思います。結論を急ぎ、実行してしまった結果、その通りの結論に至ってしまった。もし、その過程を引き延ばせば、別の結論が見つかったかもしれません。小説の中では見つからないことが確定しているとしても、現実において不在証明は非常に難しいからです。
そういう意味で、現代の科学のスピードに哲学が追いついていないこともやはり大問題であると思います。
科学はまずスピードを下げることから始めなければならず、加速することでしか成り立たない資本主義は形を変えなければならないと思います。
と、偉そうなことを書きつつ、資本主義については殆ど勉強できていないので、勉強しなくてはならないなぁと思います。

最後に、メモ程度のことをいくつか。
まず、「惑星」の方に出てくる「最終結論」について、『進撃の巨人』っぽいなと思いました。
次に、個人主義はギリシャローマ文化からキリスト教が発掘したという一節があり(P202)、ここをもう少し詳しく知りたいと思いました。
もう一つ、この本は2014年に単行本が出ていますが、作中で2020年に東京オリンピックが開催されていました。
偶然にも、まだまだ人類は未来を見通すことができないことが表れており、面白く感じました。

おわりに

今回は本の感想というより、本を通して自分の考えを整理するような形になりました。
今はまだ消化不良の感じがしますが、今後じっくりと自分の中で熟成していきそうな気がします。
また数年後くらいに読み直してみたいです。

ということで、最後まで読んでくださってありがとうございました。


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