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「良いものを食べて育つ=幸せ」とは限らない。それでも。(前)

私の母は私が生まれたとき、
「この子には最良のものをあげよう」と決意した、らしい。

その決意は木のおもちゃや手作りの人形などいろんな形であらわれて、なかでも食にはかなり気を遣っていた。

我が家では小学校に上がるまでチョコレートとガムは禁止だった。
コンビニで食べ物を買うことはほとんどなかったし、冷凍食品が食卓に出されたこともない。カップヌードルは中学生の時に近所のおばさんの家で食べたのが初めてで、マクドナルドに至っては大学で先輩に連れて行ってもらうまで食べたことがなかった。
他にも添加物...青色1号(着色料)とかトレハロースとか、ダメらしいものはいくつかあって、商品裏の記載を見た母がNGを出すのは、我が家では日常だった。

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保育園のとき、遊びに行った友達の家で食べたアポロがおいしかった記憶。チョコレートって、こんな味なんだ!という感動は幼心に焼きついた。
とはいえダメと言われているものをこっそり食べた罪悪感に耐えきれず帰りの車で自白して、めちゃくちゃに怒られ泣きながら見ていた窓の外の光景も不思議なくらい覚えている。
保育園のクリスマス会や地元のお祭りで子供用に貰うお菓子詰め合わせは大半がスナック菓子で、ほとんどお父さんのものになったことも。

小学校高学年、中学生と自分の言葉で話せるようになるにつれ、一部の禁止が解かれたり交渉して譲歩を引き出したりできるようになった。一方で、「これを食べたら母が嫌な顔をする」みたいな感覚は私の中に強く存在し、年頃の女の子らしい「賢さ」でそれを自分の好みとすり替えていた(添加物、国産、無農薬、みたいな概念をせっせと自分のものとして取り入れていた。)

その後高校入学と同時に下宿生活が始まったことで、ようやく距離を保って母親の価値観と向き合うことができるようになった。
下宿先のおばさんはぶどうを洗剤で洗うような人で、でも郷土料理や旬の山菜なんかをよく出してくれて、それもまた私の「母の味」になった。
また、高校の部活で同じような食の環境で育った友達ができたのも大きかった。

入部後すぐに「カップヌードルとマクドナルド食べたことない」共感で意気投合した私たちは、食に関する本やDVDを交換して読んだりそれについて話したりする中で、自分の考えを醸成していった。
それまで周囲に食の話ができる子がいなかった私とは対照的に、彼女は比較的都会育ちだったからか食のこだわりを選択肢のひとつとして「選んだ」意識を持っていたように思う。そんな彼女と話す中で、私が食のこだわりに対して抱いていた「押し付けられた」感覚は母親が自分のことを考えてくれ、またある意味で守ってくれた証として、前向きに捉え直すことができた。

部活の同期が2人だけだったら、急進的な「良い食」信者になっていたかもしれない私たちだが、幸いなことに同期はもう1人いた。
その子は小さな畑と裏山のある家に住んでいて、私ともう1人よりもずっと「自然」な生活をしている子だった。裏山で採れた山菜と、家の田んぼのお米と、でも菓子パンも、冷凍食品も、普通に美味しそうに食べるのである。国産小麦なんか入っていなそうなコッペパンを喜んでもぐもぐしている彼女は、保存料や着色料につい目が止まる私たち2人よりも豊かに見えた。

どっちが自然なんだろう
どっちが健康なんだろうね


大学生になり、一人暮らしにも慣れた今。
私は食費に多くの予算を割いている。
低温殺菌の牛乳
平飼いの卵
農薬の少ない野菜
国産の、出来るだけ地元のお肉。

それはやっぱり美味しいからで、
あとはこだわって作っている人を応援したいからで。
でも、時々食べるコンビニのご飯やファストフード、カップラーメンもおいしく食べたいと思っているのだ。

多少大人になって、母とも今では理解し合えていると思う。
「イライラしたお母さんと手作りの料理を食べるよりも、コンビニ弁当を楽しそうなお母さんと食べるのがいいよね」みたいな話をする。
私のお母さんは私を思うあまりにやりすぎちゃうこともあったっぽい。でも良いものを与えたいと思う母の気持ちも、正解がない子育てに必死だった母のことも、わかるようになってきた。

子育ての重圧からある程度解放されたらしい母は、今電話すると深夜カップラーメンを楽しんだりポテトチップスを一袋空けたりしている。帰省した時の冷凍庫に冷凍おにぎりを見つけることも。あの頃の私は知らなかったけど、チョコレートもジャンクフードも好きらしい。

子供の頃は、自分の家で良いとされる食が母親個人の嗜好なのか世界の正義なのかも分からなかった。それで混乱した頃を思い出して、今の母の姿に「なんだよ」と思ったりもするけど。それでも、お互いに肩の荷を下ろして食を楽しめるようになったことを嬉しく思う。

美味しいものを美味しいと思う味覚を私は母からもらった。
押しつけられた「よい食べ物」から解放されて自分で選び取るとき、おいしいものが分かるその味覚はきっと良い指針になるはずだ。
何より食についての興味と、自分が食べるものを自分で選ぶ習慣を持てているのは有り難いことだと思う。

私は将来、子供にどんなものを与えるだろうか。
良いものを。でも無理せず。
意外と難しいらしいそのバランスを推し量る。

「おいしい」を分かち合えるように。
「おいしいね」と笑顔で食卓を囲めるように。


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