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自己実現?なにそれ、

平日昼間のマクドナルド、なぜこんなに人でごった返しているのか不思議におもう。みんな学校は?仕事は?、眉をひそめてしまうほと天気が良くて過ごしやすい3月某日、春といえばのてりたまを喰らう人々を横目に、春以降の「生活」について考える。

変わらずともだちはいない、仕事はそこそこ、母とは仲が良くて父とは微妙な距離感を保っている。じぶんの未来について考えたってきっと大して変わらないが、考えることを放棄したくはないとはおもう。手に入れたいものがない。「揺るがない、確固たるしあわせ」なんてものがないと知ったいま、何を目的に、目標に、頑張れば良いのかわからない。本当にさっぱりわからない。地位とか名声とか権力とかおかねとか家族とか子どもとか、何でもいいけれど、手に入れたいものがある人のことを羨ましくおもう。自己啓発本をみても、嫌悪感すら抱かなくなった。違う国の知らない言葉をみているようだ。

生きることを目的として生きるようになったのはいつからだろう。ぽかぽかを感じる日に、長く付き合っている知人と散歩をして「良い気分だ」と感じることはある。良い映画や本、音楽に出会ったときに、考えるより先にからだ中の細胞がブワッとなって、「ありがとう」と言いたくなることもある。なんかもう、それでいいと思っちゃっていて、日に日に「わたし、これでいいのか?」という表向きの疑念すら薄れている自覚がある。例えばリクルート社に務めて海外を飛び回っている好きな人の友達の彼女(私と同い年)の話を聞いても、「羨ましい!わたしもそうなりたい!」とは本当に1ミリも思わなくて、バリキャリの自分に酔える人生にもきっと、しあわせと不幸せがあって、生きることだけを目的としているわたしと大きく違わないのではないか、とおもっている。

「いまのわたし」がはじめてマズローの欲求5段階説を聞いたら、まったく理解ができずぽかんとする可能性が高い。マズローを学んだときのわたしにはまだ自己実現欲求があって、自己実現欲求があったころのわたしはちゃんと生きていた。


それでいい。それでいいと思えているから、いい。わたし自身が。


おわり、またね。

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