本物の好き嫌いとは

※虫の話をしています※


ベランダによくやってくるクサギカメムシのことが嫌だ。心象風景には「わァ…ヤダー!!!」って勇ましく可愛く一生懸命なちいかわちゃんを浮かべ、現実にはベリークールなポーカーフェイスで箒と塵取りを携え、スッ。スッ。スッ。と3ステップぐらいで空に放つ。

初めて出くわした時、あの虫がクサギカメムシという名前であること、カメムシの仲間であることを知らなかった。

ネットで検索してそれらを知った。人間から害虫扱いされているのも知った。クサギカメムシがいかに人間の育てた植物を食害したり洗濯物を汚したりしてきたかという情報を読み、アヤめ方について詳しい解説ばかりなされているのも読み、いかに大勢の人間に嫌われている虫かを目の当たりにするうち、すっかりそれらの説の支持者になった。今はクサギカメムシを見るだけでゾーッとする。完全なアンチだ。

実は、ネットを読み漁ってそこにあった人の意見に染まる前は、(結構いい模様だし、体形が六角形なのも良いじゃん)と捉えて、あの虫に好感を持っていたように思う。

何でもかんでもそうというわけではない…と思いたいのけど、私は、大勢の人が高評価をしているものならば高評価して、低評価しているものならば低評価するところがある。自分軸ってものがないというか。あっても、それが大勢と違うようだと察した時点で、自ら無視していくスタイルというか。

先日もクサギカメムシがいたので3ステップでサヨナラ作業をやっていた。その時、ミョ~ン、と、どこからか新たな虫が飛んできた。

焦げ茶色で跳躍力がある虫だった。ボソボソとした全身が何か気持ち悪、そんな体でめっちゃ跳ぶじゃん、ヤダーという第一印象(失礼の極み)。まっさらな目でクサギカメムシを初めて見た時に感じた印象に比べると、かなりの悪印象を抱いた。

焦げ茶で跳躍力のすごいその虫はコオロギに見えたけど、確信がなかった。即検索した。コオロギだった。秋ですなぁ。

ならいいか、と思った。「コオロギ」と検索欄に入れた時、検索候補に「神の使い」という言葉が出ていたし。それだけ古来からイイネ数の多い虫ということだ。自分の正直な感覚ではコオロギのルックスに対して嫌悪感が先に来たけれど、神というワードが出るほど多くの支持を得ている存在ならばイイ。…ということに、自分の感じ方を調整した。

その次にアゲハチョウが飛んできた。何だかその日は色々来た。

アゲハチョウに最初に気が付いたのは猫だった。猫は室内から外でガサゴソしている私を見守っていたのだが、その猫が武道館で推しが出てきた時みたいにキャーキャー騒いだので、私も蝶々の飛来に気が付いた。私も「あらー」という感じでアゲハチョウを見守り、見送った。蝶はヒラヒラヒラとすぐいなくなって、滞在時間も短いし、別に嫌だとは思わない。

蝶は縁起がいいと古今東西言われていることも知っているから、それを踏まえて、よっしゃ!縁起のいい虫が来る我が家、イイネ!と思ったりもした。

そういえば我が家に間借りする小さき蜘蛛のことも、蜘蛛って縁起がいいって各所で言われているし♪という前提ありきで温かな視線を注いでいるかもしれない。


だけど時々、蝶や蜘蛛のことをすごく嫌いな人に出くわす。恐怖症には色々ある。私がイイな、素敵だなと思う人が蝶や蜘蛛の恐怖症だったりすると、私も突然に、蝶って確かに鱗粉とか飛ばすし、あのーやたら細くくびれたボディとか、何かキショイよな…蜘蛛も普通に足とか多すぎるしね…と思ったりする。



できれば私は私が本当に好きなものを能う限り愛でたいし、本当に嫌いなものを可能な限り遠ざけて生きていきたい。人の評価に左右されずに自分軸を持ちたい。

なんでそうしたいかと言うと、自分軸があるとそのー格好いいし、人生うまくいくって、色んな人がいっぱい言ってるのいっぱい見聞きしたことがあるから……あれあれ…。

そういえば、自分が大好きなものを家族が大嫌いだったりすることがある。
そうなると、本来自分軸では大好きだったそれに対して、自分軸で大切にすべき家族を嫌な思いにさせる面を持った存在である、という新しい見方が加わってきて、その新たな面によって、大好きだったそれを嫌いになることもある。その逆もある。そして私は、それがそこまで悪いことだとも思わない。それはそれで新たな自分軸とも言えるだろうし。

好き嫌いはいつもカレイドスコープみたいに変化していっていいのかもしれない。そのどれも別に、嘘ではない、のかな。





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