蛙化した君の耳たぶで孵化する蝶は潜水服の夢を見るか(小説)

 絶賛蛙化現象の只中にいる僕に、彼女が、「福耳になりたいなぁ~」と言った。耳たぶをサワサワしながら。
 気持ち悪。やめてくれ。その薄くて小さな耳たぶにだって、僕は夢中だったのに。教室で、君の斜め後ろの席から、その薄い白い耳たぶのことをコッソリ見るのが好きだったのに。
 君がいつもおろしている髪の毛を後ろでお団子にした時、それは露わになる。僕が素敵だと思っていたその耳たぶのこと、君自身は気に入っていなかったなんて。がっかりポイント加算でか過ぎるよ。
 僕と一緒にシネコンで映画を観て、フードコートにいる君も何か嫌だ。映画は渋谷のBunkamura ル・シネマとかで観て欲しい。お茶を飲むなら明治通りから一本入った通りのカフェとかに行って欲しい。君ひとりでもいいけど、誰かと一緒なら、相手は僕以外の人がいい。

 たこ焼きのセットドリンクのストローをいつまでもしがんでる君。少しずつ氷から溶け出てくる水をだらだら飲んでいるとしか思えない君。スマホを触る君。何かの通知音の後、「あ」と、声を上げる君。

「カレーのスパイス買って来てって、お姉ちゃんからだ。シナモンとカルダモン」
「どっちも無くてもカレー美味しいのに。お姉ちゃん凝り性なんだよね」
「スーパー寄ってから帰るね。一緒に行く?」

 福耳のこと。カレーのスパイスのこと。お姉ちゃんのこと。

 僕が返事をしなくてもちっとも気にしないで話を進める君のことは、やっぱり少し好きだ。やっぱり少し好きだと思ったから、

「一緒に行く。家まで送るよ」

と言った。

 彼女の家までの帰り道を一緒に歩いていて、夕焼けの中を舞うアゲハ蝶を見た。
「蝶だ。おーい、夢、見ますか?」
 彼女は蝶に向かってそう話しかけた。彼女がそれを言い終えるよりも前に、蝶はヒラヒラと黄色と黒を翻し、どこかに行ってしまう。
「行っちゃった」
「行っちゃったね」
 返事をしながら僕は、コンクリートの上に長く伸びる彼女の影の形が何だか嫌だった。

 僕たちのクラスで『潜水服は蝶の夢を見るか』という映画を観て感想文を書く授業があったのは二か月前だ。僕は「潜水服の夢を見たい蝶もいると思う」と書いた。教師は僕に断りなくみんなの前でそれを読んだので、僕は内心憤慨していた。
 だけどその数日後、彼女と偶然教室で二人きりになることがあって、彼女が僕に
「飛び回るよりもサナギでいたい子もいるかもしれないよね」
と話しかけてきた。僕は有頂天になり、教師を許した。

 彼女と僕は付き合うことになった。日曜日にデートをするのは今日で三回目だった。

 今日、僕は自分が、僕といないあの子のことが好きなんだということが、はっきり分かった。

 アメリカのコメディアンがその昔言ったらしい、「私を入れるようなクラブには入りたくない」という言葉を聞いた時、僕もだ。と心から思ったものだ。
 明日の学校が憂鬱だった。


 *

 月曜日の朝。変わったばかりの夏服が落ち着かない。僕は長袖が好きだ。「2-D」と札がぶら下がった扉を開けながら、彼女の姿を目で探す。彼女は今日も僕の斜め前の席で、仲良しに取り囲まれていた。
 だけど今日はいつもとちょっと様子が違う。

「まじで気持ち悪いって!絶対取ったほうがいいって!」
「うんうん。だってこのサイトによると、孵化するまで一か月以上かかる場合もあるらしいよ!?」

 彼女の仲良しの人たちがスマホを片手に、キンキン声でそんなことを騒いでいる。
「あ、彼氏のお出ましだよ。ねぇねぇ、見てよこれ」
 キンキン声が僕にも向けられて、僕はキンキンさんの指さした彼女の耳を見た。

 彼女の素敵な耳たぶに、サナギがズラリと三つばかり、並んでいた。

 僕はちょっと声を出せなかった。

 彼女は「おはよ~」と僕に向かって言いながら席を立った。「すごいでしょ」とそのサナギのついた耳たぶを僕に見せてきた。

「アゲハ蝶だよ。昨日リビングのソファで寝落ちしてて、起きたらここでサナギになってたの」

 彼女はとても嬉しそうに告げてきた。僕は
「そうなんだ」
 と言った。

「そうなんだ、じゃないでしょ」「キッショ」「ありえないでしょ」「キッショ」「普通取るよね」「てか普通サナギになる前に気が付くよ」「キッショ」「なんで三つもあるの」「キッショ」

 この彼女のお友達二人は、高校入学当初から、僕のことをうっすらと気色悪がっていたコンビだ。そんな毒舌で騒がしい二人に合わせて暴言を吐くわけでもない、でも強烈に反論するわけでもない、少し困った笑顔を浮かべているそんな彼女のことが、僕は今年になって同じクラスになる前から、ずっと好きだったのだ。

 僕のことを好きになったらしい彼女のことは、僕は気色悪かった。まさしく蛙化現象。ちゃんとお姫様でいてくれよ。そんなしょうもない間違いを犯さないでおくれ。

 なのに、何ということだろう。彼女は今、彼女が本来そこにいるべき(だと僕が思っていた)世界の中で、気色悪がられている。

 実際、薄くて白い耳たぶに所せましと三つの茶色いサナギをぶら下げている彼女は、気色悪かった。キンキン批判する声は延々と続きそうだった。

「サナギになっちゃったもんはしょうがないでしょ。この子たち、ここで羽化したら絶対可愛いから」

 彼女はそう繰り返すばかりだ。時々、茶色いサナギたちを保護するように、耳元に手を添えながら。

 そして僕は気が付く。

 この子がきっと、元々ずっと気色悪かったということに。

 彼女の変わらない気色悪さを、僕らは色んな角度から眺めているだけなんだということに。

 だから僕は、今、彼女の味方にならなければならないということに。


 僕は一度着席した椅子から立ち上がって、
「福耳よりも薄い耳たぶの方が、アゲハの羽根の模様とも似合うよ」
 と言った。

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